日本の大衆車元年は昭和41年だった

コラム・特集 車屋四六

昭和34年にブルーバードが誕生した頃、コロナと共に大衆車を名乗ったが、当時そんな大金を払える大衆は居なかった。大卒初任給1.2万円、喫茶店で珈琲が50円で飲める頃だから、ブルーバードの69万円はどうあがいても無理な話しだった。

そのころ車に100万円を払えるのは、景気の良い商店主、月給取りなら大会社の部長以上、医者、弁護士などのエリート達で、しかも車が好きという連中である。

まして数百万という外車となれば夢のまた夢。会社経費で買う大企業経営者、大臣高級官僚、成金や一流芸能人などである。
昭和30年代の外車輸入禁止時代は、米国で大衆車のシボレーやフォードで300~400万円、キャデラックやリンカーンともなれば700万円で、しかも2年落ちの中古車にである。

が、急速な経済成長に支えられて所得倍増、昭和40年代に入ると大卒初任給も2万円を越え、昭和41年春登場のサニー46万円なら、新米月給取りでも給料2年分以下で買えるようになり、秋登場のカローラと共に大衆でも入手可能になったのである。
10年ほど前、ダットサンや日産オースチン、いすゞヒルマンなどに給料10年分以上が必要だった頃とは雲泥の差だった。

WWⅡ後の日本は二段階を経て世界のレベルに追いついた。最初はどうやら自動車を作っていた時代、次は外車と提携学習で追いつけ追いこせの時代、その成果の現れが昭和40年代初頭だったのだ。

話変わって、昭和36年に日本ベストドライバーズコンテストなるイベントが始まった。報知新聞主催で目標は{日本のモータリゼーションのレベルアップに貢献}…協賛:読売新聞・警察庁・警視庁・JAF・グッドイヤー・シェル石油・パンアメリカン航空など、超一流の顔ぶれだった。

内容は、全国各地でラリーとジムカーナに勝った代表を、東京小金井の警視庁運転試験場に集め、運転技量試験、制限一時間の論文という、かなりな難関で、毎年一流ラリーストも参加した。

人気の焦点は、日本一という栄冠よりは、副賞のパンナム世界一周航空券で、視察という名の海外派遣が目当てだった。またシェル石油の副賞20万円は、当時海外持ち出し限度$500=18万円ということで決まったのだと思う。

昭和41年第五回に私も挑戦、運良く優勝、ローマ・パリ・ロンドンのグッドイヤーを表敬訪問のあと、私的旅行でベルリン・ハンブルグ・チューリッヒ・バンコクにも足を伸ばした。

その地区予選で使用したのが誕生したばかりのサニー1000。ハルダのスピードパイロットとツイントリップカウンター、当時の最新ラリー装備で出場したが、無改造車でよくぞチューニングしたベレットGTRやスカGと戦ったものと、今でも感心している。

モータリゼーション向上目的も一応達したと判断したのだろう、通称ベスドラは第10回をもって終了した。一方、サニーとカローラが先鞭を付けた安価大衆車は、割賦販売の普及もあり、一般家庭にも普及していったのである。

サニーの人気対策で急遽100cc+=1100ccで登場のカローラは作戦

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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