豪商高田屋嘉平

コラム・特集 車屋四六

親友高田嘉七とのなれそめは昭和31年。独逸人ルディー経営のビアレストラン元祖の銀座ゲルマニアで、毎晩顔を合わせるうちに何時の間にか飲み歩く仲になった。古めかしい嘉七の名には由緒があり、高田屋嘉平の七代目の孫、それで嘉七なのだ。

高田屋?「知ってるよ」と云う人は、函館を旅したか、司馬遼太郎の{菜の花の沖}を読んだか、NHK放映{北前船}を見た人だろう。(登場する辰悦丸1500石は高田屋初の持ち船のレプリカ)

高田屋の辰悦丸1500石船:篤志家が造ったレプリカ。NHKで放映された

淡路島出身の嘉平は、船頭から持ち船船頭になり、蝦夷の産物に目を付け、箱舘(現函館)に本拠を移し、一代で財を成した豪商。
それも豪商中の豪商で、江戸の豪商十傑で、私財百万両と云われた紀伊国屋文左衛門より上位と云われている。

嘉平のDNAを受け継ぐ嘉七の性格は豪放磊落(ゴウホウライラク)、弁護士を輩出する中大法学部卒で頭脳明晰、記憶力の良さは羨むほど、お人好しで親切、滅多に居ない人物だった。

冷戦時代のソ連を旅して私のために自動車の写真を沢山撮ってくれたが、潜水艦まであるので心配したら「俺はソ連ではVIPだから大丈夫」と云う…ことの始まりは文化四年ロシアの水兵が千島に上陸乱暴して艦長が逮捕された。するとロシアは仕返しに航行中の嘉平を逮捕し、サンクトペテルブルグに送った。

嘉平はロシア語を覚え、政府高官を説き伏せ帰国に成功すると、幕府と交渉し艦長ゴローニンの釈放に成功し、約束を果たした。

で、嘉七とゴローニンの孫、孫同士が先祖伝来の資料を持ち寄り、サンクトペテルブルグに記念館を造ったのがVIPの由縁である。

が、ソ連でVIPなのに「北方領土は日本」だと声高に云う。

そのわけは、間宮林蔵が高田屋の船で寛政十年に樺太に上陸…嘉平と共に{これより日本}と標識杭を建てたこと。また択捉と国後、両島には高田屋の出店があり、私が見た海産物五年間の出荷報告には五万両と墨書されていた。

話変わって、1960年頃、愛用の56年型シボレーで裏磐梯に彼と行った。当時、猟に凝りベルギー製ブローニングに次いでイタリー製フランキを買ったが、狩猟解禁前でウズウズしていたら「打つ所探したから」というので出掛けたのである。

入手したばかりのイタリー製12番ゲージ猟銃フランキを抱えご満悦の筆者

着いた所は国立公園、猟期でも鉄砲など撃てる所ではないのに「心配するな昨日電話しといたから」と呑気なもの…要するに親しい公園監視人に電話をしたら「明日は東京だから違反者を捕まえようがない」と笑っていたというのだ。

さすがに鳥を撃つのは諦め、標的を造り何発か打ち終わりとした。

そのころ彼は勤務先丸の内にトヨエース・バンで出勤。二日酔いの日は路上駐車の中で昼寝、時には車中で麻雀にふけっていた。

奇抜な発想が得意な彼のバンの後部は、畳を敷いた和室になっていた。云うなればキャンピングカーのはしりだったのだ。

さて嘉平に戻るが、沖で出会ったロシア船と話したのは国禁破りとの理由で、家財没収の憂き目にあい、持ち船47艘が没収競売に掛けられた。鎖国日本では禁止行為だが、ゴローニン事件以後、嘉平とロシアの交渉は認められていたのだからおかしな話しだ。

これは財政逼迫の幕府と松前の殿様との共同作戦だったようだ。

嘉七の処で{お年玉控え帖}というのを見たことがある…松前殿様五両、奥方様三両、御家老様・・とあった…町人から武士の頭領へ、心中複雑だったのではなかろうか。で、義理人情を捨て幕府とつるんだのかもしれない。

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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