フェアレディがジャジャ馬に変身

コラム・特集 車屋四六

フェアレディと云えば美人を連想するが、命名の動機を聞くと落胆する…実は川又克二社長がニューヨークでロングラン・マイフェアレディを見て感動したからだと聞いた。

が、米国自動車殿堂入りした片山豊米国日産社長は「女の名前じゃスポーツカーは売れない」と云い、米国ではフェアレディではなくダットサン名で販売された。

田原源一郎という伝説男が居る。仲間内では通称{源ちゃん}浅草老舗の若旦那で、彼との付きあいは昭和32年から。私がダットサンクラブに入った時、源ちゃんは役員で活躍していた。

当時の愛車は英国製オースチンA40サマーセット…「日産でも造ってるんだから」と云われ入会したものだった。やがて日本GP開催が決まると、源ちゃんはフェアレディで出ると云いだしたが、日産自動車は「出るな」と云い、彼は板挟みとなった。

当時日産は、始めたばかりのサファリラリーに全力投球で、国内レースには興味がなかったのだが、彼は出ると言い張る。そうこうしているうちに米国の片山さんからSP1500のチューニングキットが届き、仕方なく日産が組み立ててくれることになった。

完成した車を引き取った源ちゃんは、その足で佐藤健司、通称ケン坊の処に跳び込み「ひでーもんだ…始動大変・走るとケツが痛い・アクセル踏めば急発進・ブレーキ踏めばガックン・とてもじゃないが乗ってられね~」と興奮しながらまくし立てたそうだ。
「馬鹿だね~こいつはファクトリーチューンというやつだ」とケン坊の解説で納得したそうだが、当時はそんな知識もなかったのだ。
片山さんは慶大自動車部創始者でケン坊もOB、ということで二人は親分子分の仲良しコンビ、キット入手も彼の功績だったろう。

理屈が判れば問題解決、源ちゃんは持ち前の運動神経でジャジャ馬を乗りこなして晴れ舞台に立った。昭和38年5月連休の鈴鹿サーキットの第四レース・1300~500ccクラスである。

車がスターティンググリッドに並ぶと驚いた…「おいっ三番目じゃないか」。が「どうせ最後はビリさ」とは仲間の予想。当時の常識では、日本製スポーツカーが速いはずがなかっのである。
なにしろ相手は世界の一流、トライアンフTR-4やTR-3、MGB、フィアットスパイダー、ポルシェ911など勝てない相手だった。

スタート→第一コーナーに一団が消え→しばしの静寂のあと最終コーナーから驚愕のどよめきが起こった…すると目前にとびだして来たのが源ちゃん、しかも二番手に50mもの差をつけて。

源ちゃん操縦で快走中のダットサン・フェアレディSP1500/池田英三氏 撮影

その二番手以降は混戦状態で、追い越し→追い越されだったが、源ちゃんはトップのまま15ラップ、90.06㎞を49分14秒0、平均速度109.757㎞で優勝。ちなみに二位矢島博トライアンフTR-4、三位立原義次トライアンフTR-3だった。

こいつは凄い、と思わずピットに直行「源ちゃんおめでどう」というと「怖かったよ」と、ぽつりと云った。
それから暫くして日産スポーツカークラブが発足すると、初代会長として、象徴的存在として活躍、後輩を育成した。

翌年日産は手の平を返したように積極的にレース活動を開始する。「TVのフェアレディ連呼は三億円の価値があったろう」と電通の友人が云った。日産の豹変は思わぬ宣伝価値だったようだ。
大卒初任給が2万円の頃だから、今ならその10倍以上だろう。

日本初の鈴鹿GPの優勝車は日産で大切に保存されている:あまりの速さに低いウインドシールドが違法改造と難癖を付けられたが米国での市販キットと判りプロテストは撤回された

 

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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