日本市場から消えた名門オペル

コラム・特集 車屋四六

日本でのオペルは浮き沈みが激しく馴染めないが、欧州では老舗名門で今でも元気一杯、戦前は何度か欧州一を誇り、大歌手藤山一郎なども愛用した人気者だった。WWⅡ以後も二度ほど元気な時代があった。50年代と90年代だ。

そもそも腕の良い錠前師の息子、アダム・オペルの自動車誕生は1898年/明治31年だから、老舗中の老舗だが、車の以前は欧州一のミシンメーカー、欧州一の自転車メーカーという歴史がある。

往診用ドクトルワーゲン、また高級車造りでWWⅠ直前には欧州最大規模に成長したが、敗戦後の再出発は大衆車路線に転じ、ふたたび40%シェアに達して、ドイツ市場の王座に君臨する。

1930年代に欧州全土が米国資本攻勢を受けるが、オペル一族は逆らわずに株をGMに譲渡して生き残り、ふたたび欧州一の座に返り咲き、36年のベルリン五輪にちなみ名付けられたオリンピアは、欧州初のモノコックボディーだった。

が、WWⅡ開戦で米国資本のオペルは村八分に…でGMはオペルの資産価値1$と記載して見捨てたので、戦中連合軍の猛爆で瓦礫の山と化した工場再建には消極的だったから、戦前型オリンピアで戦後の再出発をした。

が、完全に見捨てたのではなく、様子見だったようで、やがて経営に復帰する…世界最大しかも戦勝国のGMのテコ入れらしく、53年に登場のオリンピアレコルトの姿は斬新さでは世界最先端…日本に輸入されるや大人気。輸入元の赤坂の東邦モータースの価格は96万円でも、品不足でプレミア付きで売れていった。

50年代日本市場は米車一辺倒だが小型は英車。フランス車は少量。敗戦国独逸のベンツは未だ知名度が低く、VWも話題だけ。が、戦勝国資本のレコルトと独逸フォードのタウヌスの人気は、人気の英車を越えて絶大な人気者になってしまった。
両車共に特徴は、斬新なフラッシュサイドボディーで、レコルトはフィッシュマウスと呼ぶ個性的マスクが人目をひいた。

が、東邦モータースは、人気者のフォローが弱く、徐々に人々から忘れられていった。その後80年代後半、いすゞが輸入再開するも客筋が異なり低迷したところに、偉大な救世主が登場する。VWとアウディの輸入権を召し上げられて、心中穏やかでなかったヤナセが腰を上げたのが93年だった。

さすがは輸入車業界のドン、みるみる売上げを伸ばしてVWに迫る勢いだったのに、またもや不運が…GMの方針で販売権がGMジャパンに移り、結果はジリ貧で、2006年在庫を処分して、GMは日本市場からオペル撤退を決定したのである。

 

ヤナセが販売したオペル・アストラ

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

 

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