世界的美形だった日野コンテッサ

コラム・特集 車屋四六

昭和41年=1966年頃の日本は、既に終戦から21年が経ち、敗戦貧乏時代も何処へやら、サニーやカローラの登場で、マイカー時代の幕が開こうとしていた。

一方、自動車の製造技術も世界トップレベルにイマイチというところまで来ていたが、残念ながらデザインという面だけが見劣りしていた。

が、すべて駄目かというとそうでもなく、想い出せば美しい一台があった…日野コンテッサ1300。戦中戦後、トラック製造の日野自動車が戦後乗用車市場参入を目指して、ルノー4CVの提携生産で学習後に、自主開発のコンテッサ900を開発した。

1963年、第十回全日本自動車ショーの日野の一台が観客の眼を引きつけた。そのコンテッサ・スプリント900は、武骨丸だしがこうも変身するかと目を見張る美しさだった…美しいのも道理、有名なカロッツェリア・ミケロティの作品だった。

翌年 コンテッサ900は、母体のフルモデルチェンジで1300へと進化する。ショー出品車は、著名ナルディ社のチューニングで本来の35馬力が50馬力にアップしていたが、市販時には1300になり、最高速度も125㎞から145㎞にアップした。

コンテッサ1300クーペ:ピート・ブロックの操縦でリバーサイドレースを快走、優勝した時の姿

1300には4ドアセダンとクーペがあったが、特に美しい1300クーペの一台がアメリカに渡った。そこでチューニングの名手ピート・ブロックの手で、本格的スポーツカーへと変身した。

ピートは、ドライバーとしても知られた存在で、早速サーキットに見参…66年のリバーサイドサーキットに見事優勝する。
彼はコンテッサが気にいったようで、さらに高性能レーシングマシンを仕立て上げた。

その名も日野さむらいプロト…それには世界初の仕掛けが付いていた。今では常識のリアウイングである。そして、富士スピードウェイの日本GPにエントリー、話題と期待を撒き散らした。

世界初のリアウイング姿の日野さむらいプロト:登場したFISCOばかりでなく世界のサーキットの何処に出しても注目を集めたであろう美しいスタイリングだった

話題の理由は二つあり、車ともう一つ、チーム監督が世界の三船敏郎だったから専門紙ばかりか一般紙までもが騒ぎ立てたのだが、話題とは裏腹に勝利の女神からは見放されていた。

さむらいプロトの練習走行は快調で、コースに馴れるにつれスピードも上がり、グランドスタンド前を矢のように走り去り、著名な30度バンクに消えていった。

やがてスローダウンしてピットに帰り、トラブル発生と判った。オイルパンに穴が開いての油漏れだった。

バンクがついたコースは多々あるが、30度ともなると遠心力で強烈なGが発生、人も車も路面に押しつけられる。こいつは飛行機の急旋回と同じ症状だ。「さむらい」も強烈なGで車体が沈み込み、オイルパンを路面に擦りつけた結果、穴が開いてしまったのである。

ところが想定外の破損で予備部品がなく、仕方なく市販品を付けたら、車検で最低地上高が20㎜不足して不合格…勇姿を期待したファンを落胆させたのである。

話戻して、コンテッサ1300の完成された美しさは抜群で、世界各地のコンクールで優勝したが、残念なことに次世代に繋がらなかった。66年トヨタとの業務提携で、乗用車はトヨタ、日野は商用車と棲み分けが決まったからだった。

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