フォード黄金期のマーキュリー

コラム・特集 車屋四六

WWⅡ前後の長い期間、世界最大の自動車メーカーはGMだったが、20世紀前半はフォードが一番だった。日本で云えば、日産からトヨタへと王座が移ったのとよく似ている。

フォードがGMに王座を奪われたのは、1500万台販売という空前のヒット作T型一車種だけで戦い続けるという、戦略の誤りだった。

かたやGMは、吸収合併で多車種を揃える百貨店的戦略の成功。揃えた雁首は{シボレー・オールズモビル・ビュイック・キャデラック}販売店に行けば「好きなのをどうぞ」と一カ所で済み、頻繁なモデルチェンジで新鮮味を演出したのだ。

ふと気がついたらGMが先を走っている…これには頑固者ヘンリー・フォードも兜をぬぎ、1909年以来売り続けたT型を、28年、20年ぶりにA型にモデルチェンジしたのである。

28年と云えば、画期的映画が登場する…ビングクロスビーも最敬礼という大物ジャズシンガー・アルジョルスン主演の{シンガー}。「映画がしゃべる」と観客が驚いてトーキー時代の幕が開いた。

それから10年、フォードは大衆車フォードと高級車リンカーンの狭間にマーキュリーを加えるが、不運なことに2年後にWWⅡ開戦で活躍の場を失い、活躍は終戦を待たねばならなかった。

マーキュリー誕生の38年は、ジャズには記念すべき年となった。
それまでは黒人音楽と蔑まれていたジャズが、クラシックの殿堂カーネギーホールに登場したからだ。白人ベニーグッドマンが、ついに白人中上流階級に黒人音楽ジャズを認知させたのである。
このあたりは映画{ベニーグッドマン物語}で紹介されている。

戦争中生産中止だから、戦後はどの車も良く売れて、マーキュリーにも陽が差すが、本格的人気ブランドと認知されるのは、49年に戦後デザインにフルモデルチェンジしてからである。

この年フォードは、リンカーン、フォード、三車種共に戦後開発のニュースタイルに衣替えして、世界から注目を浴びる…旧来の泥よけがない、いわゆるフラッシュサイドが受けたのだが、マーキュリーだけはチョッピリ横腹にフェンダー跡を残したのは、レトロ感の演出だったのだろう。

当時米国は{赤狩り}旋風が吹き荒れ、名画ライムライトが上演禁止…名優チャップリンの追放は、魔女狩り的行為だった。

新型マーキュリーは好調で、49→50→51年と年間売り上げ30万台を越える人気車になる。が、次の衣替えで20万台に落ちるから、写真の51年型マーキュリー・コンバーチブルは、それこそ黄金期のポートレイトということになる…V8フラットヘッド・サイドバルブ4200ccは112馬力・3MTと未だ珍しかったマーコマティックATがオプション出来た。

サイドバルブ・フラットヘッドV8は、フォードは強いを象徴するエンジンだった。

51年は、北朝鮮侵攻でソウル陥落、マッカーサー司令官解任。が、米軍発注の特需景気が、日本経済立直りの切っ掛けとなる。
黒澤明と三船敏郎の{羅生門}がベネチア映画祭でグランプリ受賞、日本人にはチョッピリ明るい年でもあった。

51年モデルチェンジで一斉にフラッシュサイド・ボディーになった大衆車フォード:親友富澤家の自家用車で登録はサンマンダイ(30316)後方にシボレーの顔が。富澤家は銀座一丁目に店を構えた{睦屋}家具室内装飾では明治以来の名門老舗。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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