アメ車が輝いていた頃

コラム・特集 車屋四六

世界で高級車と云えば、昔から英国車とドイツ車、近頃レクサスが一角に食い込んだが、WWⅡ以後、世界最大生産国は米国で、中でも最大のGM=ジェネラルモータースを{ゼニあるモータース}などと呼んだりしていた。

もちろん豪華な高級車がズラリ。が、戦前、世界に誇る米国超高級車群は、1930年代の不況で淘汰され、戦後はビッグスリーのキャデラック/GMやリンカーン/フォード、インペリアル/クライスラー、そして戦前からの名門パッカードが元気だった。

パッカード1952年頃とヒルマンミンクス:6705台生産の300型四ドアセダンなら直列八気筒5450cc155馬力3MT/撮影日本橋三越裏東京銀行横/当時は路駐OKで大半がアメ車だった

一方、今ではドイツ車人気の日本市場だが、40,50,60年代前半まではアメ車が一番…大企業重役、大臣高級官僚、大物政治家、金満家、人気芸能人、誰もがアメ車だった。

もちろん上記名門に加え、戦前からのナッシュ、ハドソン、スチュードベイカー、ウイリス、クロスレイ、戦後派のカイザー、フレイザーなども、マニアの目を楽しませてくれたものだった。

一方欧州市場は伝統的にアメ車嫌い…経済観念が強い人種には大きい大食い不経済が不人気要因だが、根底に米国=後進国田舎者の車という意識が影響していたこともいなめない。

WWⅡ終戦で、世界の自動車産業が復活に向かうが、戦場無関係の米国本土は、世界の冨が集まったように裕福で、それを反映したかのように、米車は年々大きさを増し派手に飾り、それに容積拡大馬力上昇も競争的にエスカレートしていった。

そんな状態が最高になる50年代、各車の車種陣容も見事なもので、クライスラーでは下位から、プリムス・デソート・クライスラー・インペリアル。フォードは、フォード・マーキュリー・リンカーン。王者GMは、シボレー・ポンティアック・オールズモビル・ビュイック・キャデラックと豪華な顔ぶれが並んでいた。

ポンティアック1955年型チーフタイン四ドアハードトップ:私の店カブトオートセンター前は当時築地から新大橋に向かう通称{市場通り}で地下鉄日比谷線工事中(鹿島建設工区)道路中央に工事資材が。背後に鉄骨…戦後普請家屋の建替えもこの頃から

話変わって、戦後の日本は敗戦貧乏国で外車は輸入禁止。理由は外貨備蓄不足だが、ようやく一息ついて52年輸入解禁になるが、外貨が底を突いたのか、またもや54年再び輸入禁止に。

それからは駐留軍兵士軍属家族、大公使館などの車が2年使用後なら、通関・登録が出来るということになり、実態としては2年後の中古車が、日本人の新車ということになった。

で、外人から車を買い付け、通関・登録という専門業者が大量に生まれて、以後ブローカー暗躍時代に突入し、販売価格が高騰というよりは暴騰していった。

例えばヤナセで350万円のキャデラックが、6~700万円に。写真の木下産商重役のポンティアック55年型は500万円を超える値段だが、友人宅が買った54年型は、一クラス上のスターチーフの新車なのに、虎ノ門の新朝日自動車で240万円だった。
木下産商は既に無いが、デビ夫人をスカルノ大統領に紹介と噂の商社といえば思い出す人も…当時茅場町の店に給油と修理に来る顧客だった。

1952年型キャデラック75型リムジン:日銀一万田総裁公用車としてヤナセから購入後、閣議で国産車愛用が決まり未使用のまま数年後に私の愛車になった。同型が宮内庁にある

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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