初めてのパリ珍道中

コラム・特集 車屋四六

外国旅行を{洋行}と呼ぶ時代に生まれ育った私には、映画でしか見ることがないパリは憧れだった。そんなパリ訪問がひょんなことから実現したのは、昭和41年/1966年のことである。
敗戦から、ふた昔が過ぎたとはいえ、未だ日本は貧乏な小国、戦前からの輸入品を舶来と呼ぶ言葉も通用していた。

ちなみに66年の洋行者数は30万人余だが、ほとんどがビジネス渡航。ようやく解禁の観光旅行も外貨割り当てが$500($1=360円)=18万円は、大卒初任給2万円チョイの頃とはいえ、どう転んでも宿泊交通費だけでも足りるわけはなかった。
ロンドン往復航空料金54万円、渡航費用$500=18万円、何とも辻褄合わぬ珍奇な海外旅行解禁だった。

そんな旅の実現は、全日本ドライバーコンテスト優勝で、スポンサーのパンアメリカン航空からのタダ券のお陰だった。
友人の在日米軍人から$500、やはりスポンサーのグッドイヤータイヤの宣伝部長から$1000、併せて2000ドルを懐に、羽田空港から生まれて初の洋行に旅立ったのである。

プロペラ時代が終わったばかりの四発ジェット旅客機ダグラスDC-8は120人乗り。冷戦でソ連上空は飛べず一路南回り。航続距離が短いDC-8は、香港→バンコック→デリー→テヘラン→ベイルート、点々と給油を繰り返し、29時間後にローマに着いた。

そしてローマの次はパリ。シャルルドゴール空港は当時オルリー空港で、11月中旬のパリは寒々じめじめとした古くさい街というのが第一印象で、映画{巴里祭}の印象からは当てが外れた。

貴重なドル倹約で泊まったペンションは、名前だけは立派なナポレオンボナパルテで、一泊$9=3240円。早速、日本で紹介されていた洋画輸入{映配}パリ支店に電話したら、川喜多社長のジャガーMK-Ⅱ(トップ写真)を貸してくれた。

「ホテル前は駐車禁止なのに…外車だったのネ」とマダムに云われて見たら、ナンバーに{ヴァジニアUSA}の文字。「こいつは良い…英車に米国ナンバー…パリのポリ公は間抜けだから英語話さなければ天下御免」と広告会社社長が知恵を付けてくれた。

当時パリ在住の与謝野秀イタリア大使の三女・文子さんに「文ちゃん車あるからパリ見物を」で、後の旦那・仏文学者・安部さんと共に名所見物そして食べて飲んで、と楽しんだ。

ノートルダム寺院前に駐車しようとすると、警察官が駐禁だからあっちへ行けの手振り…ローマ時代の遺跡発掘で駐車禁止だった。
警察官が居なくなるのを見定めて駐車…寺院見物を終えると、さっきの警察官が我々をにらみ待ちかまえていた。
「おまえらは馬鹿かって」「免許証出せって」仏語はもちろん英語も禁止と念押しした文ちゃんの、見事な同時通訳だった。
「今日は寒いね」などと笑顔で日本語を話していると「いいから行けって」と文ちゃんの言葉と同時に発進したら、お巡りさんの怪訝な顔がバックミラーに写っていた…フランス語の「行け」だけ何故わかった?だったのだろう。

ある晩、サンジェルマンからの小道にある宿に向かうと、なんど走ってもセーヌ川に突き当たる。気が付くと一方通行逆走も道不案内の酔っ払いでは仕方がない。何度か警察官に停められたが、そのつど日本語で切り抜け、ようやく宿にたどりついたりした。

当時、春・夏・秋のパリを知らぬ冬のパリは、風情はあるがジメジメした陰気な街、というのが私の印象だった。

シャンゼリゼ通りのプジョーのショールームでプジョー404を眺める筆者

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。