船橋サーキット、強者どもが夢のあと

コラム・特集 車屋四六

{つわものどもが夢のあと}=正しくは{夏草や強者どもが夢のあと}…松尾芭蕉が{奥の細道}の旅すがら立ち寄った平泉で、源頼朝が弟義経を討ち、東北で栄華を誇った藤原三代も共に滅んだ古戦場の跡で詠んだ名句である。

話変わって、首都交湾岸線→東関道を東へ走ると左に船橋競馬場とららぽーと、更に昔は船橋ヘルスセンターで、その東関道を隔てた反対側に、飛行場と1965年に誕生した船橋サーキットがあった。

鈴鹿でレースの花が開き、東京近辺にも、と登場したのが日本で二番目の船橋サーキット。上空を飛べば今でも往事のコースが途切れ途切れに残っているのを見ることができる

このコースの設計は、元F1の王者ピエロ・タルフィで、短いがテクニカルコースで、建設時にはJAFスポーツ委員会資格審査委員の資格で、度々訪問した想い出深いコースでもある。開場後は、計時一級公認審判員として、ビッグイベントのほとんどでコントロールタワー最上階が私の居場所…鈴鹿や富士と異なり、タワーからはコース全体が見渡せるので観戦にも最高だった。

当時の花形は、フェアレディー・スカG・ホンダS600・トヨタS800・コロナ1600GT・ベレット1600GT・セドリック・クラウン・ブルーバード。加えて、滝進太郎のロータスエラン、安田銀次ジャガーXK-E・佃公彦ミニクーパー・東大生ハザエイのモーガン、またコルチナロータス・フィアットアバルト・トラインアンフなど、世界の一流外車が華を添えた。

やがて国産フォーミュラも登場。コルト・アローベレット・デルコンテッサ・モスターFJなどだが、黎明期のレースらしく、マナーの点でイマイチという場面も度々あった。

ある日のレースに船橋サーキットの練習用ロータスが参加したが、運転が女性だったから、歴戦の男共が喜んだ。が、公式予選をぶっちぎりでポールポジションへ…こいつは腕の差ではなく車の差。
前年度世界チャンピオンのロータス、日本製フォーミュラとでは、大学生と小学生ほどの性能格差があったのである。

「ヤロー引っ込んでろ」…女にヤローもないものだが、娘に鼻を明かされた男共が血相変えて詰め寄った…役員やチーム監督がなだめてスタートしたが、怖いオ兄さんたちの脅しがこたえたのか、スピンを繰り返し、男共のブロック妨害で、悪い後味を残した。

「このヤロー」指さししながら脅す男性ドライバー:ほとんどのドライバーは紳士だが初期には一部ガラの悪いドライバーが居た

が、このサーキット、開場前にもケチが付いていた。完成直前、最終監査に来たタルフィが急に不機嫌になった。原因はスタート直後のカーブがフラットに仕上げられていたからだ。
御大の考えは、スタート直後に横並びで跳びこみ、直線に向かう見せ場で、設計図を再チェックすると、バンクが付いていたのだ。

船橋は都心近くで人気があったが、経営不振で二年ほどで競輪場に変わった。また隣の飛行場は屋内スキー場ザウスになるが今はない。いずれにしても、東関道で何時も此処に来ると{強者どもが夢のあと}…熱戦が繰り広げられた二年間ほどを思い出すのである。

1967年全日本スポーツカーレース/船橋:ヘアピン直前のジャガーXK-E安田銀次・デイトナコブラ/酒井正とホンダS800

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。