日産ダットサンの源流は三輪のゴルハム號 

コラム・特集 車屋四六

●ゴルハム號からリラ―號へ

日産の源流にたどりつくと其処には三輪車がある…制作者の米人ゴルハムにちなみゴルハム號と呼ぶ。(トップ写真:V型二気筒の三輪車ゴルハム號に乗るW・ゴルハム:ティラー/梶棒ハンドルとラッパ型警報機が見える)

が、狭い後輪トレッドが災いしてカーブで転倒するので四輪車に改良、リラー號と改名する。

製造した実用自動車が創業の大正8年/1919年は、ドイツのベルサイユ条約調印でWWⅠが終結した年だった。実は、このWWⅠがゴルハム號誕生に関連しているのだ。

ゴルハム技師の来日目的は、WWⅠで関心が高まった航空発動機製造を目論んでいたのだが、戦争終結で売り込みを諦め、世話になった日本人・櫛引弓人のために三輪自動車を造り贈った。

が、その車を見た大阪の久保田鉄工所の久保田権四郎社長が有志を募り、設立したのが実用自動車で21年に発売開始…バーハンドルの運転席+後部客席2名のタンデム三座席型で、ハーレイダビッドソンをモデルにしたのでエンジンはV型二気筒だった。

完成した工場能力の月産50台に対して、売れた月でも30台、2年間で150台ほどでは採算が取れるはずもなかった。その不人気理由は値段。フォードT型が2000円で、ゴルハム號は1300円。しかも良く倒れるというのだから、売れるはずもなし。

そこで四輪車に改良と決まったが、ゴルハムが戸畑鋳物に移籍したので、改良は日本人技師・後藤敬義が担当…のティラー/舵棒が自動車らしい丸ハンドルに、藤色の塗装からリラー號と名付けた(リラとはライラックで花の色が藤色)。ちなみに宝塚歌劇団の♪スミレの花咲くころ♪の元歌はフランスの♪リラの花咲くころ♪である。

綺麗な藤色はエナメル仕上げなので乾燥時間が長いのが欠点。木骨ボディーは日本に経験者がなく、船大工を呼び造らせたと聞く。
V型二気筒はそのままだったが、三輪から四輪、一輪増えてコストも上がり、値段2000円ではフォードに対抗するのは難しく、採算が取れずに赤字は解消しなかった。

●ダット〝ソン〟號 誕生

実用自動車の資本金100万円は、当時としては一流で工場も大規模。そこで売れない車を造っては赤字累積。で、実業家の久保田は、矢張り経営難で苦しんではいるが、小型車造りでは実績のある快進社と大正14年/1924年に合併する。

新会社名はダット自動車製造。御承知のように快進社の製品はダット號だったから、新会社の製品は、その息子という意味で、ダットソンになったが、この時点では未だ日産とは無関係である。

さて試作のダットソン號は完成したが、ここでまた難題発生…生産に移す資金が足りない。で、自動車製造にはかねてから興味を示していた戸畑鋳物の鮎川義介社長との間で、ダット自動車製造の譲渡契約が成立して、戸畑鋳物自動車部が誕生する。

そして昭和7年/1932年に日産自動車として独立して、ダットソン號を発売する時点で、販売店からのクレームが出た。
ダットソンのソンは損に通じ縁起が悪い…で、生まれた車名が、太陽をイメージしてサン→ダットサン號の誕生だった。

日産のバッジを付けたダットサン號:ダットソンの解説はそのままで、好評に売れて小型車を見ればダットサンと代名詞的存在となる

 

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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