日産スカイライン 箱スカからケンメリへ

コラム・特集 車屋四六

旅客機の客室乗務員はフライトアテンダントだが、男女差別がうるさくない時代は、男はスチュワード、女スチュワーデスだった。

1951年に決まったスチュワーデスの採用基準…18~22才・独身・容姿端麗・英会話堪能・身長158~167cm・体重45kgで、当時のJAL機内は賢そうな美人娘が笑顔を振りまいていた。

が、73年に採用基準が変わり、機内は健康丈夫そうなお嬢さん達に様変わりした。基準の項目から容姿端麗などが消えて、身長157cm以上・体重48kg以上だけになった結果だった。

そんなことがあった73年、スカイラインが箱スカからケンメリへと変身した。もちろん憧れのGT-Rも変身。御存知、箱スカはサーキットを荒らし回って、不倒の50連勝記録を打ち立てた名スポーツカーである。

もっともサーキットでの猛牛のようなイメージとは裏腹に、市販車の方は{愛のスカイライン}と可愛らしいキャラクターネームが付いていたが、ごつい姿は明らかに男意識のデザインだった。

そんな{愛}からバトンタッチされた次のモデルは{ケンメリ}と男女名が並んでいたのは、女性ユーザーにもという欲張った開発コンセプトによるものだった。

フルモデルチェンジで愛からケンメリに進化した翌年の73年、待望のGT-Rも二代目に交代する。ちなみにケンメリGT-Rは162万円…拉麺150円、カレーライス160円、ビール大瓶140円の頃だから、とても高価な買い物だった。

残念ながら二代目がサーキットで猛威を振るう姿を見ることはなかった。その理由は、日産がファクトリーチームを組まず、プライベートエントリーに任せたからだった。

ここで時計を戻すと、50連勝の箱スカGT-Rにトドメを刺したのはマツダのロータリーエンジン軍団。そんな軍団を相手に身重になったケンメリGT-Rでは、自慢のDOHCでも勝ち目がないと悲しい判断で、とは外野の勘ぐりだったかも知れない。

もっとも当時はオイルショック、そして排ガス対策の二重苦がのしかかり、莫大な対策開発費を考慮すれば、レースなどやっちゃいられない、というのが正解だったのかもしれない。

で、鳴かず飛ばずのケンメリGT-Rの総生産量は、たったの197台に過ぎなかった。ちなみに箱スカGT-Rの生産量は69年600台、70年四ドア600台・70~80年ハードトップ1200台だった。

ケンメリGT-Rが誕生した73年、港区三田の慶大裏の綱町に日本初の高層マンションが建ったが、年収700万円を超える裕福層でなければ、3000万円もする部屋の主にはなれないと、はかなんだ人が大勢居た。

GT-Rの源流スカイライン2000-GT:鈴鹿サーキットでの第二回日本グランプリの語り草、ポルシェを抜き先行するスカイラインの有名なシーン

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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