【車屋四六】 東京駅むかしの姿で生き返る

コラム・特集 車屋四六

私の手元に交通博物館所蔵とある東京駅の古い絵葉書(トップ写真)がある。
もちろん創建当時の姿だが、WWⅡ中の空爆で焼落ち復興した時には、費用がかかるということから、名物ドーム屋根が尖り屋根に変わって、長らくそのままになっていた。

戦後尖り屋根姿の東京駅と周辺/空撮車屋四六:左から中央郵便局→丸ビル→新丸ビル→国鉄/梯形も1980年代は健在だった

20世紀末、長年懸案の修復作業スタート。500億円という巨費は、低い東京駅の未使用の容積率権を丸の内界隈の高層ビルに売り、2003年起工→2012年完工で、昔のドーム姿に戻った。

日本の鉄道黎明期、関西方面は新橋から、東北方面は上野からとの建設計画が進められた。そしてその両拠点を結ぶ中央停車場の場所を宮城(皇居)正面に置くと決定…1914年/大正3年、第一次世界大戦中に完成して、東京駅と命名された。

設計者は、赤坂迎賓館や日銀本店を手がけた名建築家辰野金吾で、赤煉瓦と白石のコンビは辰野式と呼ばれた。そんな駅の絵葉書には、沢山の情報が埋もれており、今回はその絵解きである。

この絵描きは車に無知らしく、5台全部同型(右ハンドル+木製スポーク)。流行の髪型203高地を結った婦人が赤い車の客席に…203高地とは日露戦争で乃木将軍が攻略したロシア基地だ。

車を良く見れば、前照灯/車幅灯はアセチレンガス型のよう。推測でT型フォードなら1914年型。人混みの中には珍しい外人家族が居るが、日本人の大半は和服姿である。

男は和服洋服を問わず帽子を被り、洋服でステッキが紳士の定番のよう。女は洋髪より日本髪が多く、203高地姿が二人。巡査はサーベル、陸軍の兵隊は剣を下げ、セーラー服の水兵らしき姿も。
駅に向かう夫婦連れと柳行李を担ぎ従うのは出入りに職人だろうか、半纏にニッカボッカ姿は戦前よく見かけたものである。

私が子供頃、文字の書き順は右から左へ、左端看板の{入口}でそれが判る。私の記憶では、その右の赤煉瓦小屋は戦後交番だった。赤いオートバイは時代を考慮すれば1910年代後半のインディアンかも。人力車三台、遠くの赤い車は郵便車だろうか。

空には飛行船と飛行機が2機。ドイツから世界一周の大型飛行船ツェッペリン飛来は1928年。1916年、日本陸軍の小型飛行船が所沢・大阪間の飛行に成功、葉書はそのイメージだろう。
飛行機はモーリス・ファルマンだろう。1910年代々木練兵場で徳川大尉と日野大尉が日本初飛行に成功したが、徳川大尉の乗機がフランスから持ち帰ったモーリス・ファルマンだった。

陸軍は飛行機を馬鹿にしていたが、1915年ファルマンの国産化に着手…ルノーV8・90馬力・最高速度70km/h…定員2名は、WWⅠ中、中国青島ドイツ軍基地を爆撃したが、実際には上空から煉瓦を投げ落としたという程度のものだったようだ。

葉書の時計は午前9時5分、服装から未だ寒い頃のようで、時代は1915~20年と推測される。たった一枚の絵はがきには実に多くの情報が詰まっているようだが、ただ一つの疑問は、遠方の桜満開である…防寒コート姿と桜、不思議である。

500億円の巨費を投じてドーム姿に甦った東京駅

 

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