【車屋四六】瓢箪から駒・マー坊が飛び出した

車屋四六 コラム

昭和58年/1983年、スズキから個性が強いマイティーボーイが誕生した。やがてユニークな姿が若者受けして{スズキのマーボー}なる愛称も生まれた。(トップ写真:スズキ・マイティーボーイ:愛称スズキのマー坊/Bピラー後部にオプションの飾りパネルが付いて横から見ればクーペの姿)

83年というと、テレホンカード誕生、ディズニーランド開業、NHK朝ドラ{おしん}が大人気、新車車検3年に、ラジオからは♪矢切の渡し♪さざんかの宿♪めだかの兄弟、などが流れていた。

マー坊は、人気があったのに短命だった。83年3月に登場して86年末には消えていった。が、その短命には理由があった。
「あの車は助っ人だった」とあとになって関係者から聞いた。

当時のスズキは元気溌剌、二輪の世界ではホンダ、ヤマハに続き世界第三位メーカーで、低迷していた軽市場にカツを入れたアルトの成功で、軽自動車市場ではトップに立っていた。

勢いに乗ったスズキは、83年登録車市場にカルタスを投入した。
が、残念ながら、カルタスは好調スズキの足を引っ張る、親不孝者になってしまった。

石橋たたいて渡るスズキの経営は、成熟した日本市場に登録車を投入することを避けて、世界ナンバーワンのGMと手を結び、アメリカ市場を狙ったのである。

小型車が不得意なGMは、市場調査で3ドアのリッターカーなら、米国内で8万台の需要があると試算して、スズキと契約した。

で、カルタスが開発され、国内販売予測2万台をプラスして、年産10万台生産の準備を完了したのである。

年産10万台を予測した初代カルタス

そのまま行けばスズキの経営は順風満帆だったのだが、予想外な出来事が立ちはだかった。政府の{自動車輸出自主規制}こいつは自由貿易が建前の米国が輸入制限を実施できずに、日本政府に下駄を預けるという姑息な手段の結果だった。

その結果、自主規制後の輸出枠は、過去の輸出実績に比例というのだから、それまで輸出ゼロのスズキは当然ゼロ台。で、GMの協力も得て悪戦苦闘の結果、1万数千台の枠を確保できた。

が、年産10万台の工場に対して、これでは焼け石に水、急遽国内増販に政策変更、必要な新車はセルボをベースに短期開発したのがマイティーボーだったのである。

蓋を開けてみると、急造品にもかかわらず思わぬ人気者に。RVなどがない時代、若者は便利な遊び道具と受け取ったようだ。

セルボベースだから見た目スマート、走ればスポーティー。が、実際はピックアップトラックだから、分類は商用車で安価だった。

550cc・28馬力・最高速度は98粁。気分はライトウエイト・スポーツカーだが、実質軽貨物自動車、こいつは税法の盲点を突いたアルトと同じ手法だった。

スズキのマー坊、人気者だったのに短命だったのは何故か、いずれ確かめたいが…判れば報告したいと思っている。

マー坊のサイドカバーを外した後姿はピックアップトラックだ/トノーカバーが巻き上げられている

 

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