【車屋四六】ダイハツ生誕100年-①

コラム・特集 車屋四六

百数十社もあると云われる中国ほどではないが、かつて日本にも数多くあった自動車会社が時と共に淘汰が進み、今では両手の指で勘定できるほどになった。それは先進欧米でも同じで、発展途上中に起きる当たり前の現象である。

ダイハツは、その生き残りで、目の上のタン瘤のスズキを抜いて念願の軽市場王座についた07年が、ちょうど生誕100年…当然、自動車会社では日産、トヨタより長い社歴の持ち主ということになる。
そんな100周年を記念して大阪本社に隣接開館したのが{ヒューモビリティーワールド}資料展示会館/入館無料。

そもそもダイハツの創業は明治40年/1907年で、機械産業発展という技術立国を目指す国の課題から、発動機国産化を目指して誕生した。WWⅠ中、航空発動機製造を目指したBMWと同じである。

1907年は日本初乗用車タクリー號誕生の年で、会社名は発動機製造(株)を名乗り、最初の作品が6馬力吸入ガス発動機。ダイムラーやベンツが開発製造に従事した都市ガス型内燃機関だ。

こいつは大型で重い設置型動力機関だが、ロシア革命が起きた大正6年には船舶用の850馬力蒸気機関も完成している。また、大正11年/1922年にはディーゼル発動機の生産も開始した。

長きにわたり産業用動力として活躍する昭和8年発売のLH25型ディーゼル発動機

その後、産業奨励という国策を背景に、会社は着々と発展し、その集大成の一台が展示されている。昭和8年と云うから、私が生まれた年だが、完成したLH25型ディーゼル発動機は、ボア210㎜、ストローク300㎜、単気筒で25馬力/430回転だが、目方が2650kgという大きく重い発動機だった。

こいつは頑丈で優れた発動機だったようで、滋賀県で20年間もの間にわたり、23万坪という広大な水田に、連動するポンプで水を供給し続けたという。

さて、かつて日本はシベリヤ出兵で国際的非難を浴びたが、それが切っ掛けで日本軍は自動車の重要性に気づき、自動車の国産化を図ることになる。

で、大正7年ダイハツは、大阪砲兵工廠から民間自動車工場の指定を受け、翌年には軍用貨物自動車を完成している。
が、これはあくまでも軍用自動車だが、やがて我々に密着した自動車にも関わることになる。
その源流をたどると、昭和5年/1930年にたどり着く。その三輪貨物自動車の話しは、次回に。

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