【車屋四六】子供の頃に見聞きした車の話

コラム・特集 車屋四六

84才になるので、昔のことを残こしておかなければと記憶をたどってみた:文中戦前戦後とはWWⅡ=太平洋戦争前後のこと。

子供の頃、円タクと呼ぶタクシーのほとんどはフォードかシボレーだったのは、横浜と大阪で国産化されていたからだ。戦前大森駅に着き家までは、父だと円タク、母だと二人乗り人力車だった。

戦前見事な神殿で飾られた霊柩車の多くがパッカードだったのは「丈夫だから」と運転手が云っていた。たまにキャデラックも見た。
戦前往診で医者が来る、ドイツで勉強したはずなのに何故かオースチンセブン…その他は黒塗りのダットサンが多かった。

天皇行幸時の御料車は溜塗りと呼ぶ漆塗りの赤黒ツートーンのメルセデスベンツで、従者の車はパッカードだが、戦後キャデラックとビュイックというコンビも見ることがあった。

戦後各地を訪問された天皇のメルセデスベンツ・ランドー:トップが黒、下部は朱、いわゆる溜塗りと呼ぶ漆塗りである

財閥三井の30年代のベントレーやホルヒも見た記憶がある。
戦後、進駐軍に屋敷を世襲された財閥川崎さんが、家の前に引っ越してきたが、38年頃のビュイックとBMWの二輪が車庫にあり、戦中は軽井沢の別荘に隠してあったと運転手が云っていた。
ロサンゼルス五輪馬術大障害優勝の西男爵は「赤いアルファロメオのロードスター」に乗っていたと友人が教えてくれた。

慶応の先輩で何度か話す機会があった歌手藤山一郎が、親父はマックスウエルやチャンドラーに。藤山先輩は初めて買ったシトロエン28年型で受験して自動車免許を取得したそうだ。
二代目はドイツ大使の紹介でBMW、そしてオースチン、ヒルマンで自家用が3台に。戦争中慰問で行ったジャワやシンガポールでは、分捕り品のMGに乗っていた。また「慶応幼稚舎の父兄会でピアースアローやマーサーを見た」とも云っていた。

三井家門内に並んだ車の写真(トップ写真)がある。イスパノスィーザ2台、ロールスロイス、ランチャ、ダイムラー、ヒルマン、ベントレー、アルビス、ライレイ、ブガッティ2台。当主三井高公一人の所有車だから昔の財閥とは大したものである。

話は古いが、大倉財閥の長男喜七郎男爵の英国留学中にブルックランズのレースでの二位は日本人初の快挙だが、云うなれば元祖暴走族→いや暴走貴族だが、1907年帰国時にはフィアット125馬力・60馬力・40馬力・イソタフラスキーニなど5台も持ち帰った。

歌手の淡谷のり子が1920年代のルノーに、文豪菊地寛がダイアナ31年型フェートンに乗っていたと、藤山一郎先輩から聞いた。
ウチに何故か関東大震災直後の新聞束がある。その中に大男の横綱男女ノ川がダットサンに乗る写真があった。
昭和20年代、銀座東劇前のヘドロで臭い築地川に牡蠣船が一艘…その前に何時も30年代のピアースアローが駐まっていたのを覚えている。

脈絡なく支離滅裂に並べたが、忘れないうちにと書き留めた。

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