【車屋四六】腕一本で叩き上げた技術者W.O.ベントレイ

コラム・特集 車屋四六

ベントレイ社は、欧州で老舗ではないが、スポーツカーでは最高人気の一時期があった。その後、世界恐慌のあおりを食って倒産し、ロールスロイスの傘下に入った。(トップ写真:ベントレイ8ℓ/1931年。この高級車の象徴ロングノーズを真似て半値で登場したのがジャガーのルーツと云われている。)

以後ベントレイは、日産のグロリアとセドリックのように、顔は違うが中身は一緒という一卵性双生児的くるま造りを続けた。
が、ベントレイの単独時代には、1923年の第一回ルマン24時間で四位、翌年優勝…27年~30年まで連続優勝という輝かしい経歴の持ち主となった。

ベントレイ社は、1888年生まれのWOベントレイの名にちなんだもの。が、彼は工科大学などには縁がなく、腕一本で叩き上げた技術者で、出発は鉄道の見習工だが、熱中したオートバイレースの成果で、二輪界では知られた存在となる。

彼は2年ほどで鉄道を辞し、弟と自動車販売を始めると、今度は四輪レースに熱中…アストンマーチンの名も生まれたアストンクリントンヒルクライムレースなどで優勝している。

そのころ彼はアルミ合金製ピストンを開発してパワーアップに成功、WWⅠが始まると、時代遅れの英国製航空発動機を、アルミピストンに換えるよう提案した。
で、政府はベントレイを軍人として派遣した先がロールスロイス/RR社で、やがて完成したRRイーグルエンジンは、WWⅠで大活躍する。

その後、世界的に知名度が上がったRRエンジンは、WWⅡではドイツ機を苦しめたスピットファイアー、また日本空軍にとどめを刺した傑作戦闘機ノースアメリカンP51戦闘機に搭載された。

写真上部には、ブレリオXI=1909年ドーバー海峡30㎞を36分55秒で初横断した。それから30年後→WWⅡ中のRRマーリンⅢ1490hp搭載の米戦闘機P-51はMax703km/h・航続2750㎞…英ダクスフォード博物館で

話しを戻して、ベントレイはWWⅠ中航空発動機開発に従事しながらも、理想的自動車開発を続けていた。開発目標は、高速で欧州大陸をツーリングできる車、今で云うGT=グランドツーリングだ。
それは1919年/大正8年に完成…更に改良の3ℓモデルを21年に販売開始すると、たちまち人気者に(前述ルマン出場車)。

25年には6.5ℓモデルを発表し{レースに乗用車に・二座席から霊柩車まで何にでも対応}と宣伝。そして後発4.5ℓモデルでルマン四連覇を果たすのである。
その頃ベントレイは、豪華高性能でレースや乗用車市場で活躍するブガッティを「世界一早いトラック」と皮肉っている。

ルマンを制し一世風靡したベントレイ3ℓ/1925年型:ロンドン留学中に白州二郎が乗っていた

古来{スポンサーなき優秀技術者の会社は行く末不振}という例が多くあるように、ベントレイも同じ道をたどる。それを見たRRが、かなり強引な手段で傘下に取り込んだと云われている…RRは優れた技術者、WOベントレイが欲しかったのだろうか。

ベントレイが生まれた1888年は明治22年、日本では皇城二重橋が完成、明治宮殿完成を機に皇城は宮城/キュウジョウと改称されたが、WWⅡの敗戦で、今では皇居と呼ばれている。

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