【車屋四六】ベンツ第二次世界大戦後のレース活動

コラム・特集 車屋四六

日独伊三国同盟、共に戦い・共に敗戦…荒廃した国土から復興の道を歩き始めた中に、ダイムラーベンツもあった。そして復興の目処が立った頃にレース復帰を決意した。

で、戦線復帰を1954年と定めてマシーン開発に着手した。
WWⅡ以後再開のレースでは、新開発車は新参のフェラーリだけで、戦前の名門アルファロメオやマセラティなどは、戦前型の改良でレース活動を再開していた。

当初ベンツも、ナチ時代最強のW165でテストを繰り返したが、復帰予定の54年を推測すれば、とてもじゃないが時代遅れ、ということでゼロからの開発を決定した。

54年登場のベンツのグランプリマシーンを搭載状態で風洞実験されたという専用運搬車。300SLや300SLRなども乗せてアウトバーンを疾走していたのだろう

先ず目標を、当時のFIA規定のF1=2.5ℓと定めて、開発コードW196の開発を始めた。そして54年デビューし、念願のグランプリに参戦すると9勝を挙げチャンピオンに輝き、強さを見せつけた。
が、翌年のルマン24時間レースでの大事故でレースを断念、その後暫くレース活動を中止したのは御承知の通りである。

さて、ベンツはF1マシーンと並行して、スポーツカーの開発にも着手、52年に完成した、プロトタイプの300SLガルウイングでワークスチームを結成、戦線復帰、勝利を勝ち取っていく。(トップ写真:初参加で優勝したベンツ300SL-417号車/スタート時刻4時17分から417と命名したという)

参加を始めた52年いくつかのレースに勝ち、ルマン24時間レース優勝が最初の金星だった。次ぎにニーブルクリング25周年記念レースに優勝、そして世界一過酷と云われたカレラ・パナメリカ・メキシコレースに参戦し、有名なエピソードが生まれる。

峠の道を時速200㎞で疾走中、車から逃げ切れなかった禿鷹が助手席ウインドーに突っ込み、助手が負傷・意識不明になるが、走りきり優勝を手にしたという話しである。

以後スポーツカーレースでのワークス活動は中止したので、以後300SLはアマチュアの手で幾つもの勝利を重ねていった。
その最初の勝利が、ビッグレースのミッレミリアだった。

トレードマークのガルウイングを拡げたベンツ300SL

1903年パリ・ボルドーレースの観客巻添え事故で、政府禁止の公道レース復活は、独裁者ムッソリーニ。イタリア北部からローマ往復で1000マイル=伊語でミッレミリアが名前の由来。二日間もイタリア北部の公道閉鎖は、独裁者ならではの企画だった。

が、57年タイヤバーストでフェラーリがコースアウト、ポルトガルのポルタゴ侯爵と助手、そして観客9名の死亡で、イタリア政府は禁止を宣言した。この時の優勝はPタルフィのフェラーリ。

ちなみにミッレミリア史上最速記録は、55年スターリングモスのベンツ300SLRで平均速度157.67km/hだが、実はF1マシーンW196がベースなので、300SLの正しい後継モデルではなかった。