【車屋四六】日本の木炭車全盛時代

コラム・特集 車屋四六

戦後70年も経てば{木炭車}と云われても困る人ばかりだろう。
「炭で走る蒸気自動車ですか」と聞く若者がいたが、蒸気は外燃機関で、木炭車はガソリンと同じ内燃機関である。

古い知識人で、木炭車は日本が生んだ傑作的発明いう人もいる。太平洋戦争中の物不足、燃料無くとも自動車は走らせなくてはならない、で、生まれたのが木炭車と思い込んでいる人達だ。

が、ルーツは欧州のようで、日本で普及したというのが正解だ。
木炭とは炭/スミを指すが、初めの頃は炭だったが、戦争が激しくなると炭も貴重品、ということで、薪で走るようになる。

戦争中、車業界では炭も薪も代用燃料と呼んだから、車は代燃車だった。もっとも代燃車には炭薪ばかりでなく天然ガスも使われた。ヤナセが開発し昭和15年発売の装置は、今のLPG車と思えばいい。
過日、江東で温泉掘削中メタンガスが噴出、火が点いて騒いだ報道があった。江東から千葉方面地下にガス層があり、大多喜にはガス会社があり、ヤナセはそれを圧縮してボンベに詰めたようだ。

昭和12年開始の支那事変(日中戦争)に反対の欧米は、ABCD(A米国・B英国・C中国・Dオランダ)包囲網を結成して日本を経済封鎖。で、石油やゴム鉄が不足し、代燃車が登場したのである。

代燃機関は続々開発されたが、昭和13年のリストでは、愛国式、燃硏式、陸式、浅川式、ミウラ式、理研式、大阪バス式、白上式、東浦式など、数多くあったことが伺える。

1930年代のシボレー代燃車の写真がある。上部カマスの中は木炭か薪。左の釜に炭を入れ下の焚き口で点火→手回しブロアーで火が回ったら上の蓋を閉める→外気遮断酸欠で発生する未燃焼ガスは棕櫚繊維などのフィルターへ→煤を除去されたガスを水タンク通過で冷却→綺麗になったガスをキャブレターに、という順序。

バス用の大型代燃装置

今のLPG車と同じだからエンジン改造は不要だが、代燃車の朝は、こんな作業が一時間近いのだから大変。またタクシーやバスが出払った車庫前には、天日で乾燥するために薪が拡げられていた。(写真右:銀座尾張町(四丁目/たぶん三越前)で長袖の和服婦人にビラを手渡す徳川彰子日婦東京都支部長と理事達/昭和18年8月31日)

{ガソリンは血の一滴}は子供の頃の標語だが、経済封鎖でゴムと石油が不足して、日本軍はボルネオの石油、マレー近辺のゴムを押さえるために始めたのが太平洋戦争だった。

昭和13年国家総動員法施行、14年国民徴用令施行、学生長髪禁止で小学生から丸坊主、外国女の真似とパーマネント口紅スカート禁止。{贅沢は敵}和服も{決戦時にべらべらと長袖}と取り締まる国防婦人会のオバサン達の袖は短い元禄袖と呼ぶやつだった。

戦時中全盛を極めた木炭車は、物資不足で敗戦後も生き延びて、昭和26年、代燃車のガソリン車への変更禁止解除まで活躍した。

昔サイドバルブ時代、ヘッド外してカーボン落としは運転手の仕事「代燃車はカーボンが溜まらないので楽だが力がない」と云っていた。小学生の頃、急坂の手前でバスの運転手の「若い人は降りて」の声で降り、坂が急なときは皆で押したものである。

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