【車屋四六】昭和30年代・数寄屋橋・尾張町界隈

コラム・特集 車屋四六

戦後30年頃の日本は、朝鮮動乱の特需景気で少し暮らしが楽になったが、講和条約締結で昭和27年に占領終了後も、全国津々浦々米軍キャンプや施設が残り、米兵が闊歩していた。

日劇から撮ったニュー東京も、日本人立入禁止の米軍専用。昭和20年代主食は未だ統制だったが、ますや/看板に中華・喫茶とあり、中国や韓国系などの第三国人経営なら、公然ではないが米も麺、酒もあったことが想い出される。(写真トップ:日本劇場/日劇屋上→ニュー東京ビル:クラウンが見えるから昭和30年以降。都電9番=渋谷―日比谷―月島)
が、すき焼きや大関の看板も見え、記憶では甘味処{九重}が在ったから、そろそろ食料統制が緩み始めた頃でもあった。

写真には都電11番・トヨペットスーパー・ダットサン・ルノー4CV・オースチンA40&A50・ヒルマン・シボレー・オート三輪などが。当時都電運賃13円、終戦頃は20銭だから凄い物価上昇である

敗戦で進駐軍に占領されていた臭いが薄れ始めたのは昭和30年を迎える頃からだが、それ以前の有楽町・日比谷・銀座・丸の内界隈は、進駐軍の巣窟みたいな様相だった。

まず皇居前第一生命ビルには占領軍の総本山、マッカーサー元帥の連合国軍最高司令部/GHQがあり。丸の内警察の隣はMATS/米軍輸送隊、日比谷交差点角帝国生命ビルには憲兵隊司令部が。

隣の三信ビル=米軍下士官兵舎、帝国ホテル=将校宿舎。宝塚劇場はアーニーパイル劇場に、ニュー東京=米軍専用ビヤホール、また日比谷公園ド真ん中にドーリットル野球場が造られた。

尾張町/銀座四丁目角のライオンビアホールも米軍専用、松坂屋地下のRAA=特種慰安施設協会の軍人専用{オアシスof銀座}には400名余のダンサーが居り、表向き恋愛自由黙認だったが、実は堂々の売春斡旋施設だったようだ。

二丁目には米軍専用のキャバレー・クインビーが、服部時計店はPXと表に面してスナックが、松屋は米第八騎兵師団専用PX、その斜め前教文館ビルはタイムやライフなど使っていた。

数寄屋橋角の阪急デパートは極東空軍宿舎、新橋第一ホテルも米軍宿舎。勿論GHQから大手町界隈に掛けて焼け残った立派なビルやホテルは、中央郵便局も含めて、大方米軍に接収されていた。

一方日本語難解…GHQは日本中の道に英語名を付けた。日劇前はZアベニュー、GHQ前がAアベニュー、昭和通りが10thストリート、等々、日本中が英語の道路標識だらけになってしまった。

古い写真数枚で、たくさんの昔が甦ってくるものである。そして日劇と隣の朝日新聞社は消え、ニュー東京ビルや松阪屋、阪急デパートも建替えられた。現在戦後70年、世の中換わるものである。

昭和28年松坂屋屋上→尾張町交差点:服部時計店と教文館ビル、右は銀座三越と松屋屋上。時計塔右上部に筑波山/高層ビルがない昭和30年前の晴れた日の眺望は素晴らしかった
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