【車屋四六】手作りスポーツカーからF1まで

コラム・特集 車屋四六

1950年代、スポーツカーの代名詞だったMGは、走ればシボレーやフォードより遅かったというように、スポーツカーには馬鹿っ早いのから遅いのまで種々雑多…要は走る楽しさが醍醐味で、ただ早けりゃ良いというものではないようだ。

アンソニー・ブルース・コリン・チャプマン…漢字文化の我々には覚えにくい名前だが、一人で、早いのから遅いのまで、またレースの世界でも名をなした人物である。

彼が作ったスポーツカーは、世界で知らぬ者が居ないほど有名で、その第一作がロータスセブン。日本で東京タワーが完成しスバル360が登場した1958年に誕生した。

さて米国でミッキーマウス誕生の1928年に生まれたコーリン・チャップマンは、WWⅡ終戦の年に、父親が買ってくれた、37年型モーリスエイトの改造で、スポーツカーの世界に跳び込んだ。
ジャガー生みの親のウイリアム・ライオンズと同じ道をたどる、学生バックヤードビルダーの誕生だった。

チャップマンは地方の草レースで好成績を挙げながら、ふと周りを見ると、レースはやりたいが金がないという若者が多くいることに気が付いた…そんな連中に安いスポーツカーを、と考え開発したのがロータスセブンだった。

優れた技術者だったチャプマンは優れた経営手腕も持ち合わせていた。安く売る手段として、取引税なし部品販売という手段を考案、部品を箱詰めにしたキット販売を始めた。(トップ写真:キット販売で若いレースファンを喜ばせたロータスセブン)

この税法の盲点を突いた廉価版スポーツカー実現のため、彼は素人でも組立て可能な車を開発。そして何処でも安く入手できる大衆車のエンジンと変速機を好みで組み合わせられるようにした。
もちろんエンジン、変速機とも部品購入だから取引税なしだ。

また取引税など気にしない裕福な連中には、完成品の販売もした。いずれにしてもセブンは評判がよく、売れて、資金が潤沢になると、彼の次なる目標は高性能スポーツカーの開発だった。

で、1958年に登場したのがロータスエリートで、専門家の注目は、当時登場したばかりのグラスファイバー/FRPで、ワンピースボディーの製作技術を確立したことだった。

FRPの採用は、空力追求で生まれた研ぎすました微妙なカーブと軽量化を両立するための手段として、どうしても実現しなければならなかった技術だったようだ。

直四1216ccから80馬力を絞り出し、最高速度185㎞という高性能で、草レースの連勝はもとより、59年~64年まで毎年ルマン24時間レースでクラス優勝という偉業とは裏腹に、1台売れる毎に1000ポンドの赤字と云われ、商業的には失敗作だった。

いくら人気が高く高性能でも赤字続きではたまったものではない。
で、当然のようにチャップマンの課題は、高性能そのままにコストダウンするという工夫だった。

売れれば赤字だったロータスエリート:見るからに空気抵抗が少なく軽快さを連想する姿である

1962年、ついに登場したのが、ロータスエランだった。
エリートとコンビだったコベントリークライマックス高性能エンジンは、安い大量生産品フォード1558cc93馬力に変わったが、極力切り詰めた軽量化により、最高速度185㎞は維持した。

性能を維持しながら安くなったエランは、商業的にも優等生で、世界に販路を広げながら、レース場を荒らし回り、ライトウエイト・スポーツカー此処にありと胸を張ったのである。

昭和40年代には、鈴鹿、富士、船橋など、数多くのサーキットで活躍した。滝進太郎、佃公彦などの勇姿を、年輩のファンは思い出すことだろう。

またロータスは、F1グランプリでも大活躍し、その名を天下に知らしめたが、ついに手を出さなかったのが重量級スポーツカーとGTだった。

SCCJ主催マロニエランに参加、日光のゴールに到着したロータスファミリー
Tagged