【車屋四六】トヨペットスーパーの使命

コラム・特集 車屋四六

写真下は1954年/昭和29年前後の銀座4丁目交差点。私が子供の頃は尾張町交差点だった…幕府の命で紀州尾張藩が埋め立てたのが、その名の由来である。

1954年日比谷公園開催の第一回東京モーターショーのトヨタブースに展示されてたトヨペットスーパーRHN

交差点で先頭を走るのはトヨペットスーパーRHK、次がオペルレコルト、最後がVWビートル。道路中央凸凹部分は都電の敷地…敷地の御影石は都電廃止で銀座の歩道に再利用され生き残った。

VW横に一塊の人達の所は20cm程高い安全地帯で都電を待つ人達。{ライオン歯磨}奥は松坂屋{銀座名物ソルド市}の垂れ幕が。米軍接収時代地下に進駐軍専用ダンスホール・オアシスがあった。

左角ライオンビアホールも、暫くは進駐軍専用。その後205年までは日産ギャラリー。その対面服部時計店も松屋も進駐軍専用、前の教文館ビルにはライフやタイムなど米系報道媒体が入っていた。

トヨペットスーパーの登場は1953年。珍しいことに姿が違う二種類が同時発売され、RHKは関東自動車工業製、RHNは中日本重工業製で、前車を関東ボディー、後車を三菱ボディーと呼んだ。

ちなみに関東自工はGHQ財閥解体令で分散独立した中島飛行機の一社。同様に中日本も旧三菱重工業からの一社である。

トヨペットスーパーRHN/トヨタ博物館蔵:斬新な顔は英国フォード・コンサルをイメージしたようだ

スーパーは全長4280x全幅1590㎜・車重1590kg・開発直後のR型直四OHVは1453cc・48馬力。日野ルノー4CVと共に{神風タクシー}の名を生み出した一台でもあった…強力エンジンで、都電の右側を追い越すなど傍若無人な走りが今でも目に浮かぶ。

遠い記憶をたどると、やたら遊びが多いハンドル、踏ん張っても止まらないブレーキ、重すぎるクラッチ、ケツを突き上げる乗後心地、とても乗用車とは云えない程度の悪いトラックだった。

もっとも、乗り心地の悪さは仕方ないこと、開発車が至上命令に忠実だっただけのこと。開発目標がタクシー市場らしく頑丈が至上命令だったのだ…で、頑丈な格子型フレーム+ごつい四輪リーフスプリング+6プライタイでは、誰が見てもトラックそのものである。が、結論を先に云えば、トヨタの目論見は的中していた。

発売されたスーパーの頑丈さは天下一品。当時日本の道路は世界に知られた悪路だから、6人乗れて、いくら走っても壊れないとなれば、タクシー屋さん大歓迎だったのである。

戦後タクシー業界は、戦前の生き残りで走り出し、それが壊れると輸入車に頼るが、大型米車はまだしも、2ドアのVWやパナール、ひ弱なシトロエン2CVなど走れば何でもと飛びついた。

が、良い路面育ちの欧州車は日本の悪路で悲鳴を上げて壊れた。

そんなところにタクシー用に開発され頑丈な六座席トヨペットスーパーだから人気上昇、外車を市場から駆逐したのである。

以後しばらくは小型頑丈のダットサンと、中型頑丈トヨペットスーパーで、日本のタクシー市場を二分する時代が続いたのである。