【車屋四六】オペル・オリンピア・レコルト

コラム・特集 車屋四六

ドイツでは名門オペルだが、日本から失せてしまった。このオペル、ヨーロッパでは売れっ子ブランドだったのに、何故か日本での人気は上がったり下がったりである。(写真トップ:オペル・オリンピア・レコルト:WWⅡ以後、ドイツ製はもちろん英国製、フランス製、どれもが復活戦前型の中でアメリカンスタイルはピカイチだった)

1993年、輸入業者のドン、ヤナセが販売を始めたので、これからと期待した。この時のオペルも92年までは無名だった。もっとも、ヤナセがやるなら知名度など不要、ゼロからの出発も料理がしやすく、気にしなかったかもしれない。で、96年には、3万8339台まで販売が伸びた。さすがヤナセの底力だ。

が、オペルの本格的登場はこれが初めてというとそうではない。かつて、日本市場で一世風靡の人気者だったことがある。WWⅡ以前、ヨーロッパで最大生産量を誇ったオペルは、敗戦後すぐに生産を再開、53年にモダンな戦後型にフルモデルチェンした。

そしてヨーロッパ域内ばかりでなく、ドル稼ぎの輸出先アメリカでも人気者。もちろん、アメリカ製でなければ夜が明けない当時の日本でも、最高の人気者になったのである。その頃のエージェントは、赤坂溜池20番地の東邦モータース。

そもそもオペルは1892年創業の屈指の老舗だが、会社そのものは1862年創業。出発はミシン製造だが、やがてヨーロッパのNo,1メーカーに。次に手を付けた自転車でもNo,1メーカーになる。

第一次世界大戦(WWⅠ)の後、ドイツ自動車市場最大の敵はアメリカだったが、オペルは発想を転換して、GMと資本提携で不況を乗り越えた。が、最終的にオペルは、31年に一族の持ち株もGMに渡して100%子会社になる。

その後オペルは、自動車生産量でヨーロッパNo,1に成長するが、戦争に向け歩きだしたドイツでアメリカ資本では、ナチス党に嫌われ嫌がらせの標的になるのは当然の成り行きだった。

ナチは国威高揚の一環として、36年にベルリン・オリンピックを開催する。それにちなんで命名された新型車がオペル・オリンピア、欧州初の全スチール製モノコック構造だった。

WWⅡが始まると、航空機部品製造に専念は世界中の戦争当事国製造業に同じ。お陰で英空軍の猛爆で工場は瓦礫の山と化す。

開戦時にGMは、ナチス政権下のオペルを諦めて、資産価値を簿価1ドルと計上したこともあり、瓦礫の山の再建には消極的で、再建のスタートは48年と遅れたのである。

もっともその間オペルは手をこまねいていたわけではない。部品生産で当座を凌ぎながら、自動車生産再開を目論んだが、状況は不運だった。敗戦貧乏国にふさわしい戦前の国民車カデットが、工場丸ごとソ連に持ち去られ、モスクワで再建されていたからだ。それがカデットと相似形の、モスコビッチと呼ぶ車だった。

で、やむを得ず、ひとクラス上の戦前型オリンピアでの再スターを切ったのである。そのラインオフが47年12月。それが原因かどうかわ知らないが、47年GMが本腰入れての再建を始める。で、高級なカピタンの生産も再開、業績は急速回復する。

オペル・カピタン:WWⅡ前からオリンピアの上級車種だったカピタンもアメリカンスタイルに

そして53年に決定打が放たれる。親会社GMのアメリカ流デザインで仕上げられた新オリンピア・レコルトの登場だった。

フィッシュマウスと呼んだクローム鍍金の顔、フラッシュサイドのポンツーン型ボディーは、斬新さ抜群、アメリカでも評判が良く、貴重なドルを稼いだのである。

とうぜん日本でも断トツ人気で、戦勝国で人気のイギリス車やフランス車も敵とせず、入荷次第奪い合うように売れていった。

そんな人気は60年代半ばまで続いたが、ふと気がついたら、世間からは忘れられた存在となっていた。

ひと頃、GMと提携した関係で、いすゞが輸入販売を始めたが、顧客層が合わずに鳴かず飛ばずの状態だった。が、そこへ乗り出してきたのがヤナセだった。

ゼロから始め、輸入車No,1にまで育て上げたフォルクスワーゲンの販売権をVWに召し上げられて怒った梁瀬社長の決断が、日本では不人気でも、ヨーロッパではVWと互角の勝負を続けているオペルvsVWの戦いが、日本で再現されたのである。

ヤナセの店頭に大きなオペルの看板:それまでの主力VWとアウディの小さくなった看板・修理は致しますの意思表示か

さすが、ヤナセの実力、見事に売り上げを伸ばし、やがてという時に、またもや障害が。親会社GMの世界戦略で、ヤナセはオペルの輸入権を失ったのである。

その後、日本市場でのオペルはご存じの通り。望郷の彼方に去りそうな気配である。“たら“れば”という言葉は禁句かも知れないが、もしヤナセがオペル販売を続けていたら、こんにちの日本輸入車市場の様子はかなり違ったものになっていたかもしれない。