【車屋四六】快走ブルーバードに危機せまる

コラム・特集 車屋四六

戦後ようやく世界的技術レベルに達した乗用車ブルーバード310は、四年間で21万台を販売と日本初の快挙をやってのけた。

 

敗戦復興も終わり日本中に活気が満ち、自動車産業もこれからという頃だった。310の大成功で気をよくした日産は、奇抜な手段で次期モデルの開発に挑む。

デザインでは世界をリードするイタリアでも、超一流カロッツェリアのピニンファリナにデザインを依頼。それを日産は公表しなかったが、噂が流れて我々専門家は直ぐにそれを知った。(写真トップ:21世紀に入ったばかりの日曜日、銀座日産本社脇で保存状態最上の410。日産社員の車か)

新しいブルーバード410は、軽量化しながらも高い剛性を生み出す一体構造モノコックボディーなど、画期的技術が光る車だったが、イタリア生まれのスタイリングが足を引っ張ったのである。

限られた小型車の寸法内に大きなキャビンと大きなトランクという、先進国なら高い評価を受けるはずのファリナのレイアウトも、車では発展途上の日本人ユーザーには理解されなかった。

特に不評は「尻下がり」のテイルエンド。その尻下がりは訳ありだった。日本では下がった方がよいと日産は独断したのだ。それが裏目に出たのだが、言うなれば余計なことをしでかしたということ。

実は、ファリナから届いたモデルは、窓から下のラインは、前から後までほぼ水平だった。この時期ファリナは、フィアットなどに、好んでこのスタイルを取り入れている。

この思わぬ不評に乗じたのがライバルのコロナ。初代から三代にわたり310に完敗して奪われた小型市場の王座を取り戻す。65年の登録台数で、念願のトップに立ったのである。

登場したての410は、1L45馬力と1.2L55馬力だったが、コロナと戦うためか、1.2LモデルをSUキャブ二連装と武装強化して、65馬力のSSを登場させる。

もっともこの時期、64年鈴鹿サーキットの日本GPで火が点いたモータースポーツ熱に合わせた強力化でもあったろう。また、65年のマイナーチェンジでは、1.6L90馬力のSSSも登場させている。

第一回日本GPで準備不足の日産は、というよりはやる気が無く、やる気満々のトヨタに惨敗したが、唯一瓢箪から駒的にプライベート参加のNDC田原源一郎のフェアレディー優勝でお茶を濁した。

船橋サーキットのヘアピン突入直前の410ツードア、追うのもフォードアの410。白いフェンスの向こうは船橋飛行場滑走路

フェアレディー優勝の反響は予想以上で、電通の試算で数億円の宣伝価値相当とあり、日産の第二回目の取り組みは真剣だった。

かつては世界的二輪の王者だった田中健二郎をスカウト、ドライバーとしてだけではなく、他選手の指導もさせて、ファクトリーチーム作りに邁進したのだ。

結果、ブルーバードSSは、田中健二郎優勝、鈴木誠一二位。以後も、津々見友彦、長谷見昌弘、高橋国光などが、着々と戦果を上げていった。

今なら間違いなく受けただろうイタリアンデザインの410は、その後も苦労を続けて510にバトンタッチするが、410は市場では不況でもレース場では輝き、輸出した海外では上々の評判だったことを付け加えておく。日本では嫌われたイタリアンデザインも、海外ではファリナの目論み通りに認められていたのだ。

60年代半ばバンコクで見つけた410フォードア。前コロナ、英フォードコルチナ/英。後方はバンコク一番だったエラワンホテル