【車屋四六】アストンマーチンの生い立ち2

コラム・特集 車屋四六

前回の話で、アストンマーチンは59年のルマン24時間レースの優勝を最後に、レース活動を停止と紹介した。

華やかにレースを盛り上げたDB=デビット・ブラウン社の本業はトラクターメーカーで、事業に成功した経営者の、最高のスポーツカーを作ろうという夢が果たされたからなのだろう。

が、DB社は、スポーツカー造りだけに専念していれば良かったのに、バーやカジノ、ペントハウス(有名雑誌)にまで手を広げて、本業をおろそかにしたのだろう、74年に倒産した。

昔の諺で“捨てる神あれば拾う神あり”とは良く云ったもので、アメリカ、イギリス、カナダのアストンマーチンファンが集まりシンジケートを組み、興したアストンマーチンラゴンダ社が75年生産を再開する。

このように、アストンマーチンには強烈ファンが何時も存在するが、そもそもアストンマーチン社の旗揚げは22年である。きっかけは、走り大好きのライオネル・マーチンと技術屋ロバート・バムフォードが組み、先ず自動車修理工場を開業。次にシンガーの販売を開始。二気筒10馬力をチューンナップしたシンガーで、各地のレースに参加したのが始まりと云えば始まりだった。

そうこうするうちに彼らは高性能スポーツカーが欲しくなる。が、町工場では高度な部品造りが無理。で、最良部品の組み合わせで行こうと考えた。

先ず高級車で名高いイソタフラスキーニの小型シャシーに、四気筒サイドバルブ・1389ccのコベントリー・シンプレックスを載せて、初めての自作スポーツカーを完成した。

その車は、各地のレースを転戦しながら磨き上げられていった。そして14年のこと、ロンドン郊外アストンクリントンヒルクライムレースにマーチンが優勝を記念して、アストンマーチンの名が誕生するのである。

第二次世界大戦前のアストンマーチン:既に消えてしまった麻布自動車のショールームに展示してあった

21年、当時名の知れたドライバー、B.マーシャルが彼らの車を借りてルマンに挑戦、幸いにも六位入賞したのが、彼らがルマン挑戦に情熱を燃やし始めるきっかけとなる。

その車の性能に惚れ込んだズボルスキーはポーランド貴族。彼が高性能レーシングカーを発注したことでツインカムが開発され、車は国際レースで大活躍、アストンマーチンの名が知れ渡る。

好成績に気をよくしたズボルスキーは大株主となり、22年ついに会社誕生となるが、会社名はバムフォード&マーチン社で、まだアストン社の名は登場しない。

が、前途洋々これからという25年、ズボルスキーがイタリア・グランプリで事故死、会社の資金繰りが悪化、残念なことに25年倒産の憂き目を見るのである。

が、捨てる神あれば拾う神ありで良品は死なず。27年会社を買い取ったのが、イギリスに帰化したイタリア人の技術屋ベルテリ。ここで初めてアストンマーチンを名乗る自動車会社が誕生する。

新会社のレーシングカーは、31年、32年とルマンに挑戦、二年連続クラス優勝。35年には総合三位、更にイタリア伝統の長距離レース、ミレミリアに総合優勝と輝かしい戦績を残す。

この時代のアストンマーチンは人気者、現在重要なコレクターアイテムとなっている。マカオグランプリのクラシックカーレースで撮った車は“インターナショナル・ルマン”とも呼ばれている。

30年代は世界的に不況の時代で、それを乗り切るためにとレース活動に力を入れたのが裏目に出て経営悪化した。で、イギリス貴族サザーランドが経営参加するが好転せず、この時期のアストンマーチンは品質が悪いと云われている。

ちなみにアストンマーチン創業の22年はフランス女性解放の年。登場したシトロエン5CVは856cc、543kg、最高速度60粁。世界小型車の歴史を変えたと云われるのは、小型軽量、運転のしやすさで男の乗り物だった自動車を、女性に開放したと云われている。

09年パリ郊外シトロエン収蔵庫で見つけた1922年型シトロエン5CVトルペード。発売時黒ホイールにイエロー車体が目立ち一躍人気者に。BMWディキシーを相似と提訴するが敗訴の話は別稿で