【車屋四六】マトラM530

コラム・特集 車屋四六

マトラと云っても知る人は少ない。日本では馴染みの薄いクルマだが、70年代世界のモータースポーツ界では輝く存在だった。

写真トップは、多分68年頃のジュネーブだから、67年~70年まで製造された、マトラM530だろう。

70年頃の日本は、サニー、カローラ、ホンダN360などが登場して、高嶺の花の車の大衆化が始まる一方で、日本グランプリの刺激でモータースポーツに熱に火が点き盛り上がってきた頃である。

そんな時代にマトラが輸入されなかったのは、難しい日本の保安基準が壁だったようだ。が、厚木の米軍基地に一台、将校が乗っていることを聞いたが見てはいない。

その頃になると、講和条約も済んで日本は独立、進駐軍から在日米軍と呼ぶようになっていた。六本木の第八騎兵師団や憲兵司令部なども立ち去り、闊歩していたアメリカ兵の姿も少なくなってはいたが、占領時代の治外法権は一部健在で、マトラもそんなことで持ち込めたのだろう。

自動車では有名でないマトラも、フランス航空産業では有名な存在で、同じM350でもミサイルなら、その道で知らぬ者が居ない傑作兵器である。

いずれにしても飛行機屋が他業界に手を広げようとするとき、短絡的に連想するのが自動車のよう。英ブリストル、また 環境は違うがBMWや富士重工、メッサーシュミットなど、皆おなじだ。

そこでマトラ社は、空力性能抜群のスポーツカー“ルネボネ”を丸ごと買収して“マトラジェット”を売り出した。

取りあえずライバルはアルピーヌだが、ランボルギーニやロータスヨーロッパより早く、市販では初のエンジン・ミドシップ搭載のスポーツカーだったのである。

が、高性能追求のあまり高額になりすぎ、売れば赤字という操業的失敗作となる。が、バックは資金力豊かな兵器会社だから、俗に云う“親方日の丸”で、マトラ社自作品開発への踏み台、学習料と割り切っていたようだ。

67年、満を持したようにジュネーブショーに登場したのが、有名ミサイルの名を冠した“マトラ530”だった。

ジュネーブショーのマトラ530の前から

さすがに時間と金、そして高度な技術が必要なエンジン開発はせず、コスト低減目標もあり、ドイツフォードのV型四気筒1699cc、73馬力をミドシップに搭載していた。

高性能追求で高価なルネボネとは異なり、530は実用性重視のGTに仕上げたのが特徴。で、200万円もしたのが100万円近くにまで下がって、マトラ社の開発目的を果たした。

実用性重視の530は、ミドシップなのに2+2で、デタッチャブルトップなど斬新機構も取り入れていた。

マトラ530には、イタリアで走る機会があったが、パワー不足だった反面、ミドシップならではのクイックなハンドリングが楽しかったのを憶えている。

後発自動車メーカーが急いで知名度を挙げる手段の一つはレースやラリー参加。マトラもご多分にもれず果敢にチャレンジした。マトラはフランスの会社だから考えることは一つ、ルマン24時間レースのチャンピオンになることである

が、ルマンでは、活躍はするがチャンピオンの夢は果たせなかったが、F3からF1へのチャレンジは見事に花を咲かせるのである。

69年、フォードV8搭載のマトラF1が、南ア、オランダ、フランス、イギリス、イタリアと勝ち続けて、その年のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた。ドライバーは、名手ジャッキー・スチュワートである。

マトラ社のM530は、目論み通り商業的成功作となるが、あまりにもレースに金を注ぎ込みすぎて、自動車部門が不採算に終わるが、マトラの知名度向上という面では大成功を収めたのである。

マトラ530を後から、ミドシップ搭載エンジン