【車屋四六】ニッケイタロー

コラム・特集 車屋四六

軽自動車というジャンルは日本のお家芸、独特な発展を遂げて市場を生み出した。お馴染み淘汰の波も乗り越えて、現在、生き残り合戦の勝利者は、スズキ、ダイハツ、ホンダ、三菱。

それまでの軽自動車界では、たくさんの車が誕生しては消えていった。本格的工場で生まれたもの、町工場的産物、はたまたガレージのようなところから誕生、さまざまである。

昭和20年敗戦で、壊滅状態の日本経済から生まれたのが軽自動車だ。乗用車生産経験がほぼ無いと云える日本の戦後、例え我慢しても金持ちが振り向くような登録車はなかった。日本製はタクシー、金持ちは輸入外国車と相場は決まっていた。

もっとも商店や製造業、運送屋などには、オート三輪や小型トラックがあり、仕事がなければ自家用車になってお出かけする。 そんな家庭を羨ましく眺めていたものだった。

やがてスクーターや小型バイクが登場すると、自家用車的気分を知ったオーナー達が、乗用車が安く買えればと夢見るようになる。それで登場するのが軽自動車、昭和30年前後である。

もっとも敗戦での経済破綻はドイツも同じ。そこで雨後の筍のようにバブルカーと呼ぶ軽自動車が登場するが、自動車先進国らしく、製品は上等で高性能、日本のとは大きな格差があった。

少しだが輸入された舶来軽自動車が街を走っていた。メッサーシュミット、BMWイセッタ、チャンピオンなど。

ドイツとは比べものにならない低技術の日本で生まれた軽は、早い話が弁当箱にタイヤを付けたような物ばかりだが、例外はフライングフェザーで、外車と比べられる出来映えだった。

フジキャビン

またユニークなフジキャビンも良かったが、稚拙なFRP技術が足を引っ張ったようで直ぐに消えた。軽とは呼べないがミカサツーリングも一人前で、ニッケイタローは意欲的だった。

桃太郎と間違えそうなネーミングだが、漢字文化の日本で横文字風カタカナ名というのは後の世の流行で、当時はダットサン、オータ、三輪ならマツダ、くろがね、二輪メグロ、陸王、トーハツ、アサヒ、コレダ、メイハツなど、堂々とした日本名で商売していた。

ニッケイタローで苦笑するなら、オートサンダル(名古屋・238cc10馬力)テルヤン(360cc13.5馬力)などでも笑いが取れるだろう。

昭和28年頃から日本自動車工業㈱が製造を始めたニッケイタローは、当初NJと呼んでいた。それが昭和31年に日本軽自動車㈱と改名し、車名もニッケイタローと生まれ変わった。

当時の住所録では、埼玉県川口市本町1-185・電話川口2910とあるが、別の資料の日本自動車は横浜なので、製造権を譲渡して、車名も変わったのかもしれない。

昭和33年頃まで生産していたようで、写真はその頃のものだろう。NJと呼んでいた頃はロードスターだった。

町工場でエンジン開発は難しく、フジキャビンのエンジンがガス電製だったように、初期の軽ではエンジンを仕入れることが多かったが、ニッケイタローは珍しく自家製だった。

空冷V型二気筒OHVで4サイクル、357cc、圧縮比は高めの7で12hp/4000rpm。車重450kg。変速機はシンクロメッシュ型三速。四輪コイルスプリング、四輪独立懸架と斬新機構の持ち主だった。

全長2990x全幅1400㎜、ホイールベース1950㎜。定員3名。貨物積載量150kg。“車検不要―スクーター免許でOK―税金もスクーター並”が売り文句だった。

 

この時期登場した町工場の意欲的軽自動車達は、昭和40年=65年頃まで生き残るものはなく、生き残るのは大メーカーの軽自動車だけだが、浜松で産声を上げたホンダだけは例外小企業だった。

ニッケイタロー登場は昭和31年=56年、前年にフライングフェザーとスズライトSSセダン誕生。翌年の32年にはフジキャビン誕生。軽自動車が自動車業界で市民権を得る原動力となるスバル360誕生は58年だった。

フジキャビン