【車屋四六】・ランボルギーニの旅はフェラーリとの闘いでもあった

コラム・特集 車屋四六

ランボルギーニは欧州のメーカーでは新参者だが、49年間に波乱に富む人生を送りしぶとく生き残る。その遍歴の旅は次の通り。

62年創業→63年350GTでデビュー→71年経営不振でスイス実業家が51%株主に→74年他のスイス実業が49%を→78年BMW委託のM1生産遅延で解約され倒産し政府の管理下に→81年フランス実業家250万ドルで買収後クライスラー傘下に→インドネシア財閥買収→アウディ傘下に入り、ようやく安住の地を得たようだ。

日本への輸入権も猫の目のように変わった。68年ミツワ→72年シーサイドモーター→84年JAX→91年ガレージイタリア→98年ミツワ→2001年よりランボルギーニジャパン。

既に何度も登場のフルッチョ・ランボルギーニだが、農家の倅で工科大学を出てWWⅡに出征。終戦後、農機具製造で財を成す。金を持てばフェラーリに乗る、はイタリアの定番コースで、彼もフェラーリを買うが、納得できない部分を大御所フェラーリに提案しようと面会を申し込んだがナシのツブテ。

無視されたと思い込んだ彼は、フェラーリを上回るGTの製造を決心する。フェラーリにしてみれば「ド素人が何を云うか黙って乗っていろ」といったところだったろう。

「何台もGTを買ったが満足できず自身で造ることにした」と、言葉は紳士的だが、ランボルギーニの内心は「この野郎やっつけてやる」と敵愾心満々だったようだ。

ランボルギーニ初作品の350GTは、V12DOHC、四輪独立懸架。仮想敵フェラーリのV12SOHC,リアリジッドFRに加えて、乗り心地、静粛、スムーズなドライブなど、全ての点でフェラーリを凌駕し、値段だけはフェラーリを下回るという具合に、闘争心見え見えの作品だった。

もちろん新参者がいきなり売れるはずもなかった。が、何処にも居る新しもの好きが買ってみたら「意外に良い車だよ」が口こみで伝わり、徐々にファンを増やしていった。

そして名実共にフェラーリを越えたと云われた名車が登場する。66年デビューのミウラだ。ミウラというと日本人は親しみを感じるだろうが、香水ゲランのミツコとは異なり、日本に関連はない。ミウラは、スペインの闘牛で活躍する獰猛な牛のブランド名なのだそうだ。

ミウラは流麗な姿とは裏腹に、猛牛ミウラの名にふさわしいホットな性能の持ち主で、エンジン・ミドシップのレイアウトはフェラーリより5年早く、最高速度もフェラーリを上回った。

ミウラ

この性能に自信満々のランボルギーニは、仮想敵フェラーリへの、追いつけ追いこせの終わりを感じたのだろう、ミウラの販売価格はフェラーリを越えていた。

ミウラ誕生の66年=昭和41年は私が初めてのヨーロッパ旅行で、初めての欧州自動車ショー見学の年だった。そのトリノ自動車ショーでミウラを見つけて、惚れぼれと見つめていた。

それを側で見ていたのだろう、グッドイヤー社PRエージェントのビアンキーニ部長が後日借りてきてくれた。で、喜び勇んで速度無制限のアウトストラーダへ飛び出した。が、日本全国速度規制上限60㎞の途上国から来たドライバーは、初体験の時速200㎞ほどでアクセルを緩めてしまったのである。

ファンも増え市場の信頼を得たランボルギーニは、400GT、ハラマ、エスパーダ、ウラコなど、続々と兄弟も増えていく。そして71年のジュネーブショーに、真打ち登場とばかりに舞台に上がったのが、カウンタックLP500だった。

ミウラ

人目を引く奇異な姿はベルトーネのデザイン。ミドシップに縦置きの5L・V12気筒はウエーバーキャブ三連装で440hp/7000rpm、最高300km/hの大台をマークと発表された。

が、市販時にはオーバーヒートの解決策で4L・375hpに換装されたが、依然として最高300km/hを維持していた。

長年日本でもカウンタック人気は衰えないが、かつてのスーパーカーブームでは、全国各地で子供やマニアを楽しませてくれたが、街で見掛けるようになるのは、バブルが膨らんだ頃からだった。