【車屋四六】ハドソン物語

コラム・特集 車屋四六

ハドソンなどと云っても知らない人が多い時代になった。WWⅡまで、アメリカにはたくさんの自動車会社があった。戦時中はそれぞれが兵器生産に全力を挙げ、戦後は戦中空白の乗用車需要に応えて、再び全力投球、各社好成績を上げていた。

が、ふと気がつくと、それは戦後の業界再編、生き残りの戦いでもあった。で、戦いに敗れたハドソンはパッカードと合併、更に営業好調のナッシュとの合併が54年で、アメリカンモータース=AMCが誕生する。

一方、ジープで好調なウイリスはカイザーフレイザーを合併してから成績低下で70年にAMCに吸収される。が、やがてAMCも失速して一時はルノーが資本参加するも好転せずに、クライスラーに吸収されてしまった。

こうした合併劇の波に翻弄されたハドソンの生涯は、1909年に誕生して、57年をもって市場から消えていった。戦前のハドソンは、どちらかというと高級感があった。

戦後、進駐軍が持ち込んだハドソンは、日本人にとって知名度のない車だった。それが一躍脚光を浴びたのが48年型。地味なハドソンが派手に変身したのである。

ハドソンの日本エージェントは戦前からの老舗の日本自動車。現在首都高が跨がる溜池交差点。首都高がない時代は六本木方面からはT字路の突き当たりで、そこに在ったのが日本自動車だった。日本自動車はフィアットのエージェント、また英ダンロップのエージェントでもあった。

戦後アメリカに登場した老舗の乗用車は、各社、仕舞った倉庫から出してきた戦前型での再出発だったが、50年前後になると、一斉に戦後開発の斬新モデルに変身していった。

ハドソンの変身は48年。その変身ぶりが斬新で人目を引いた。子供の頃に「泥よけ」と呼んだ常識的姿が消え、その非常識な砲弾のような流線型が日本自動車のショールームに飾られた。

売れ行き不振でも当時ドリームカーと呼んだショーモデル。当時の流行でイタリーのカロッツェリア・ツーリングに発注の、ハドソン・アメリカ

泥よけのない姿は、フラッシュサイドと呼んだ。フラッシュサイドを世界的に有名にしたのはフォード。が、登場が一年後の49年だから、ハドソンは斬新さのトップランナーだったのである。 当時のハドソンには三シリーズがあり、ホイールベース112吋のペースメーカー、124吋のスーパー、そして最上級コモドア。エンジンはペースメーカー用が3.7L112馬力だった。

同じ直六でもスーパー用は4.2L123馬力。最上級コモドアなら直列八気筒4.1L128馬力。これで気が付くことは、現在のように高級車=大排気量ではなく、高級=多気筒だったのである。

ちなみに、それぞれの価格は、ペースメーカー4ドア$1933、最高価格のコモドア・コンバーチブル$2893だった。

53年頃のハドソンは元気一杯、NASCARレースでも活躍、チャンピオンにもなった。が、この頃が元気の絶頂で、すぐに斬新な姿も色あせて、急速に市場人気が降下していった。

合併効果で、55年にはナッシュのドル箱だった小型車の共通ボディーも発表するが焼け石に水で、悪あがきもこれまで、57年に最後のハドソンを世に出して消えていった。

53年型ハドソン・ホーネット:マイナーチェンジされても基本的スタイルはそのまま