【車屋四六】前輪駆動日本の先駆者はスズライト

コラム・特集 車屋四六

54年=昭和29年、日比谷公園での第一回全日本自動車ショーのガイドブックには24社の二輪メーカーの名がある(ラビットやシルバーピジョンなどは除外)。が、実際には全国に100社以上のメーカーがあったという。

会場で会ったオッサン「出品してないが俺んとこも二輪メーカー・浜松の三大メーカーだ」とうそぶく。よく聞いてみれば、三大ではなく、三台で月産三台ということだった。

が、たくさんあった二輪屋さんも50年代後半のモペットブームが去った頃から淘汰が始まり、みるみるその数を減らしていった。

62年頃の一流メーカーと云えば、スズキ、ホンダ、ヤマハ、川崎、新三菱、富士重工、宮田製作所、山口自転車、ブリヂストン、東京発動機、目黒製作所、ゼブラ、新明和、富士自動車、平野製作所、数えればわずか15社になっていた。

それが63年には7社に。翌64年は、世界のレース場を股に掛けたトーハツ(東京発動機)が消え、戦前からの老舗・目黒製作所が川崎に吸収合併されて5社に。更に熾烈な生き残り合戦で、現在のホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキの四社体勢に落ち着くのである。

二輪ブームが去るのは65年=昭和30年頃だが、その頃の四輪登録は、全国で乗用車150万台、貨物車300万台。敗戦の後遺症から立ち直った頃ではあったが、まだまだ貧乏が続いていた。

貨物車が乗用車の二倍だが、貨物車300万台の内訳は軽自動車。が、その軽貨物は、まだまだ増える兆しが濃厚だった。

その時代の軽貨物というと、スズライト、マツダB360、ダイハツハイゼット、三菱360、スバルサンバー、コニー360、ホンダT360、ホープスターなどである。(写真右:スズライトキャリーの雑誌広告。我が国初の軽自動車を開発したスズキが軽快に稼ぐ現代的ミニトラック、と。)

織機製造から終戦後二輪メーカーになり、55年スズライトで四輪メーカーの仲間入りをはたしたスズキは、59年にスズライトTLを、61年スズライトキャリーFBを発売して、60年代初期の軽貨物市場で活躍した。

スズライトに始まる、スズキ軽自動車の目の付け所は先進的だった。まず、他社が常識的構造のFRやRRだったのに対して、スズキはFWD(前輪駆動)を、そしてエンジンは2サイクルの採用である。その頃2サイクルエンジンは、二輪用か小型作業用というのが常識で、本格的乗用車への採用は、画期的だった。

その後スズキの2サイクルエンジンは磨き上げられて、360ccながら三気筒41馬力にもなり、レースでも活躍する。そして2サイクルでは至難の業とされ、他社が4サイクルに転換する中で、スズキは唯一2サイクルで排ガス規制をクリアするのである。

が、年々厳しくなる規制に、最後には4サイクルに転校するのだが、スズキの2サイクル技術は素晴らしいものだった。

さて61年に登場したキャリーFBは、日本国内はもちろん海外にも輸出されている。写真は何処の国かは判らないが、多分東南アジアだろう。ドアに“AZEYANカンパニー”と書いてある。

スズキのインドネシア進出は早く、現在、現地工場はフル操業を続けているから、写真はインドネシアかもしれない。6人くらい乗れそうだから、タクシーにでも使われたのか。が、そんな使い方では、ダイハツミゼットが先輩かも知れない。

東南アジアで活躍する乗用車型スズライトキャリー