【車屋四六】ゼロ戦からスクーターへ

コラム・特集

ゼロ戦と云えば、WWⅡ中に連合軍が最も恐れた世界最高の戦闘機。ちなみに世界各国の名戦闘機ということになれば、アメリカ=ノースアメリカンP51、イギリス=スーパーマリン・スピットファイヤー、ドイツ=メッサーシュミット109あたりだろう。

帝国海軍の注文で、ゼロ戦=正しくは海軍零式戦闘機の生産は中島飛行機(現富士重工)。「ちょっと待て・違うだろう」という読者も居るだろう。そう、開発は三菱の堀越二郎技師だが、三菱の生産量では足りず、むしろ大量供給したのが中島だった。搭載の空冷星形14気筒“栄(さかえ)”(930馬力~1130馬力)も中島製。

もちろん中島独自の名戦闘機もある。陸軍一式戦闘機“隼”だ。もしゼロ戦と戦えば互角だったろう。南方戦線で、スピットファイヤーやカーチスP40を蹴散らした強豪だった。♪エンジンの音轟々と♪隼は行く雲の果て♪と唄にもなった。

25万人もの社員を抱える中島は、三菱と共に多くの名機を生み出した世界有数の飛行機メーカーだが、敗戦で羽をもがれて会社存続のために、自転車、手動製粉機、作業用発動機、映写機、食器、形振(なりふ)りかまわずに手当たり次第何でも造って食いつないだ。

で、自社で造れるものをと鵜の目鷹の目で探していたある日、アメリカ製スクーターのパウエル(130cc2馬力)を持つ下請け業者を発見。これだ!とばかりに跳びついた。

早速、借り受けたのが昭和20年終戦の年の暮れ。早速開発を始めて翌年8月には早くも試作を完了した。普通なら難題となるエンジン開発はお手の物である。

面白いことに、群馬太田と東京三鷹の2工場で並行開発された。で、名前もラビットとポニーの二通り。が、商標登録の段になり“ラビット”の名が選択決定される。

ラビットの試作車:もしかするとタイヤは銀河の尾輪。モデルは大女優高峰秀子

当初ラビットの車輪は中島製爆撃機“銀河”の尾輪という噂が流れた。が、試作品には装備されたが、銀河用尾輪は溝がないスリック型で試走中に転倒。で、市販時には通常タイヤとなる。

で、定年退職の技術者が一言「ラビットは太田工場だから銀河用丸坊主タイヤだったはず」と。宣伝用写真のモデルは若き日の高峰秀子。

発売当初の値段は9000円だが、昭和38年=63年頃には16万円ほどになっていたが、その頃富士重工は、58年にスバル360を発売して、本格的四輪車メーカーに脱皮していた。

ラビットの市販開始は47年。ライバル三菱シルバーピジョンは半年ほど早い46年。シルバーピジョンのヒントも、敗戦直前に下請けが日本に持ち込んだ、アメリカ製スクーターだった。

が、後発にもかかわらず、人気上昇は“ラビット”。で、ラビットが、スクーターの代名詞になるのである。

47年発売時頃の物価は都電50銭、NHK聴取料17.5円、手紙1.5円/葉書50銭、公衆電話50銭、地下鉄60銭、新聞一ヶ月20円、煙草2.5円という時代に新車9000円はとても高い商品だった。

登録商標の関係で没になったポニー試作車:同じスカート柄だからラビットと同じ日の撮影だろう。当時これほど短いスカートは珍しい