【車屋四六】進駐軍将官の贅沢三昧

コラム・特集 車屋四六

写真トップは昭和29年=1949年の宇都宮飛行場で、米軍連絡機デハビランドビーバーと米軍将官の自家用車シボレー。この飛行場は自衛隊向け航空機を製造する富士重工宇都宮工場に付属しているので、現在民間機の着陸はできないが、当時は筋道通せば使用できた。

その頃私は大学生で日本学生航空連盟の合宿に参加していた。太平洋戦争後、GHQの航空禁止令が解除されて、多くの大学で航空部が復活した。が、戦後の大学は貧乏でグライダーが買えない。で、朝日新聞が日本学生航空連盟を復活、各大学合同合宿を主催してくれたのである。

学連合宿中、毎朝初級練習機K-14型プライマリー(朝日新聞所有機)を組み立て1㎞程先の飛行場へ。組み立て終了後の点検中

合宿訓練中のある日、MP(憲兵)のジープが来て「訓練中止」と命令された。“長い物には巻かれろ”という諺どおり、当時の進駐軍は治外法権、王者のごとく横柄で、泣き寝入りするしかなかった。

暫くすると、別のジープで来た兵隊が銃を持ち、あたりの警戒を始める。次にやってきたのが、写真左端のシボレー。シボレーは48年までは戦前型で、49年~52年まで戦後デザインになる。

写真トップのシボレー・フリートラインは、直6OHV、3300cc90馬力。全長4925㎜、ホイールベース2875㎜。車重1400kg。米国内価格$1500(54万円)。

「こいつは軍用車じゃない」。軍用車ならカーキ色だがブルーで、ナンバープレートが3Aで、しかも3番。マッカーサーの私用車が1番だから、かなりな高官の自家用車のはず。

暫くすると、南の空から爆音がして、降りてきたのが星のマークを付けた軍用機。で、降りてきたのがスーツ姿の偉そうなジジイで、シボレーに乗って走り去った。

訓練再開OKと伝えに来たMPが「偉い奴の遊びに狩り出されるのはかなわない」とこぼしていた。マイカーを東京から兵隊に回送させて自分は飛行機で、目的は日光見物だと云っていた。

宇都宮では既に餃子が有名。当時は屋台で一人前30円。おろしニンニクをたっぷりと付けて焼酎飲んで御馳走と思っていた学生には、日光見物に飛行機から自家用車に乗り継いで、という贅沢さに別世界を感じたものだった。

ちなみに飛行機はカナダ製デハビランド・ビーバー。米軍の連絡機で、英国からパリ公演に向かうグレンミラーが、ドーバー海峡で行方不明になったのも同じビ-バーである。

全幅14.6m、全長9.3m。7人乗り。米プラット&ホイットニー空冷星形1万6000cc、450馬力。昭和30年代、日本にも何機か輸入されたので、操縦したことがある。

でかいエンジンのわりにはスピードが出ない機体だったが、安定感抜群で操縦しやすく乗り心地の良い飛行機だった。2トンを超える重さだが、400mもあれば離陸する身軽な飛行機なので、頑丈さとあいまって、軍用機として便利だったのだろう。フロートを付けた水上機が、まだ世界で活躍している。

結局、我々の訓練は1時間ほどの中断で再開したが“泣く子と地頭には勝てない”の諺どおり、進駐軍のやることには全て泣き寝入りというのが、当時の日本だった。

酔っ払った兵隊に、芝浦の米軍キャンプに連れ込まれて、射的の的にされてしまったオヤジの知り合い。また帰宅途中をジープに連れ込まれ、何人もの兵隊に強姦されて放り出された娘の話も聞いた。でも全て泣き寝入り。そんな人たちから比べれば、1時間の訓練中断など、取るに足らぬ迷惑だった。

特に戦場から直接日本に上陸した兵隊は乱暴だったが、昭和25年頃になり、本土から来た兵隊達が多くなると事件は減っていった。もっとも乱暴者はごく僅かだったのだろうが。

富士重工がライセンス生産のビーチクラフト・メンター:航空自衛隊発足時の練習機は米軍払い下げのノースアメリカンT-6で後にメンターを採用