【車屋四六】クラブマントライアルレース

コラム・特集 車屋四六

茨城県の谷田部自動車高速試験場で、クラブマン谷田部タイムトライアルレース大会が開催された。コースは高速周回路の筑波山側北半分を使ったので、中間部にバンクも含まれていた。

1965年2月28日の寒い晴れた日で、くっきりと筑波山が望見できたのを憶えている。たしか、JAF公認第一回クラブマントライアルレースだったはずだ。

谷田部試験場は、自動車メーカーと自動車関連産業が資金を拠出して完成した一周5.5㎞のオーバル周回路で、南北のバンクは手放しで釣り合う設計速度が190㎞という高速周回路だった。

完成は64年。日本の自動車環境が発展して、日本初高速道路の名神高速開通を目前にして、新車開発で高速での走行実験が必要という機運の高まりで計画されたものだった。

つくばエクスプレス開通で、2005年に茨城北部の城里テストセンターに高速周回路が移転したので、我々の頭に残る谷田部の記憶は、松尾芭蕉の“強者どもの夢の跡”的存在となる。

が、当時は完成後半年ほどが経った頃で、レースなどにも気軽に貸してくれたのである。その後も専門誌などの高速性能テストには貸してくれたので、各誌のページを賑わせた。

このトライアルの主催は、SCCN(日産スポーツカークラブ)、TMSC(トヨタモータースポーツクラブ)、QCCJ(日本4CVクラブ)、三団体共催だった。

63年鈴鹿の第一回日本グランプリで、日本にモータースポーツ熱の火が点いて、64年の第二回は、第一回とは打って変わり、レースファンだけではなく、メーカーも本気になっていた。

が、第三回は、金銭欲が出たJAFと、鈴鹿サーキットで折り合いが付かずに開催中止。盛り上がった熱気の吐け口として、クラブマンが全面に押し出してきたのである。

これら団体はお遊び的同好会ではなく、レース主催能力を持つ本格的組織だった。古手のSCCJ、NDC東京に加えて、NAC、SCCN(日産)、TMSC、ISCC(いすゞ)、QCCJ、PMSC(プリンス)、KSCC(関西)、NRC(名古屋)など強力なクラブが誕生していた。

この大会での審査委員長は大和道孝/SCCJ。副審査委員長湊謙吾/SCCN&NDC東京、大会会長田原源一郎/SCCN&NDC東京、審査委員島田正三郎/SCCJ、競技長宇田川武良/SCCN&NDC東京。

出走前の写真(写真トップ)に、セドリック、英フォード・コルチナロータス、パブリカ、ブルーバード410、ベレット、左端にコンテッサの頭が写っている。レースは、GTがA、B二クラス。ツーリングカーはC、D、E、Fと排気量別に分けられ、トライアルは二回走行の合計点で争われた。

Cクラス優勝は北原豪彦/パブリカ、二位藤巻克彦は俳優/セドリック。Dクラス優勝のブルーバード江原達怡は加山雄三とコンビで活躍の俳優。高橋国光がブルーバードで三位。写真のコルチナロータスはEクラス優勝岡崎勇。Fクラス優勝杉田幸朗グロリアはプリンスのエース、三位杉江博愛クラウンは後の徳大寺有恒。

Aクラス優勝前田洋治MGミゼット、二位S600の川合稔は後にトヨタ7の試走中の事故死で“オー猛烈”で有名なモデル小川ローザが涙に暮れる姿がTVで放映された。

三位MG-TDの中村正三郎は後に代議士、元環境庁長官。そして正三郎のMGに負けて悔しがる四位が、ホンダS600の私メである。もっとも私の一回目は川合より速かったので、張り切りすぎた二回目によろけなければ二位の可能性もあったのが悔やまれる.

張り切りすぎてコースアウトしてした優勝候補のコルト

注目は1301cc以上のBクラス。優勝スカイライン横山達、二位フェアレディ黒沢元治、三位ジャガーE横山精一郎、四位ベレット浅岡重輝、五位ロータスエラン美保敬太郎/ジャズミュージシャン、六位長谷見昌弘、九位ロータスエラン滝進太郎、十二位MGB生沢徹、いずれも当時のトップレーサー達だった。

GP中止で結束したクラブマン達は、谷田部トライアルの5ヶ月後にオープンした船橋サーキットで、本格的サーキットレースの戦いを始めるのである。そして、翌66年に富士スピードウェイが完成すると、日本グランプリは関東に移り、モータースポーツの熱気はますますエスカレートしていったのである。

最終コーナー進入直前のホンダS600