【車屋四六】伝統のブランドを捨てたカペラ

コラム・特集 車屋四六

長い年月をかけて売り込んだブランドというものは、それだけで大きな値打ちがあり得難い財産である。そんなブランドを捨てる企業を見かける。将来に対する自信か、軽はずみか、事業不振で藁にもすがりたい気持ちなのか、いずれにしても強い決断力が必要だ。

が、考え抜いた決断であっても、チョウと出るか、ハンと出るか、賽を投げてみなければ判らぬ大きな賭であることは確かだ。私が知る限りで、最大の賭をしたのは日産だったと思う。

WWⅡ以前から小型車の代名詞にもなった大看板“ダットサン”を捨てて、ツキも捨ててしまったようだ。ダットサン時代は、トヨタと張り合い、時には優位だったこともあるのだから。

「過ちは直ぐ改めよ」は昔の諺だが、いざ実行となる難しい。マツダはバブル絶頂の頃、業界トップのトヨタに並ぶ、販売系列5チャンネル体制を構築、そのとき乗用車からカペラが消えた。

が、バブルがはじけ、痛手を受けたマツダは、伝統のブランド・カペラを復活する。94年8月29日、目白の椿山荘で新しいカペラがお目見えしたのである。

昔の人は「覆水盆に返らず」ともいったが、これでマツダは取りあえずツキを取り戻したのである。

そもそもカペラの誕生は昭和45年=70年。60年代、一世風靡のビートルズ解散。市ヶ谷自衛隊駐屯地に殴り込んだ青年達、親分三島由紀夫が割腹の後、日本刀の介錯で壮絶な死を遂げた年である。

その頃マツダは、登録車市場に全力投球のため軽自動車キャロルを切り捨てた。で、商業的に世界唯一のロータリーエンジン(RE)を武器に“ロータリゼーション”なる合い言葉を旗印に、進撃を開始したのである。

大先輩のコスモスポーツ、大衆車ファミリアロータリー、上級車ルーチェロータリーの間を埋めたのが、カペラロータリーだった。カペラは、レシプロ両建てでなく、はじめからRE搭載だけを念頭に開発された乗用車だった。(後続サバンナも同手法)

カペラの心臓は、新開発12A型REで、これまでコスモやファミリアに使われていたローターの厚みを10ミリ増やし、排気量拡大で出力向上を図ったREだった。

通常のレシプロ型とは異なり、同じトランスファーマシーン、そして付属の補機類もほぼ共通のまま、あらゆる排気量に対応できるという、REの大きなメリットを生かしたものでもあった。開発期間短縮は、即コストダウンに結びつく優れた資質である。

12A型は、573ccx2ローター、圧縮比9.4、120ps・6500rpm、14.0kg-m/3500rpmという高出力。もしレシプロ搭載なら最高速度160前後だろうが、REなら、セダンで180キロ、クーペに至っては190キロと、きわめて高性能だった。

コンパクトな12A型ロータリーエンジン単体

カペラは、その後、4回のフルモデルチェンジのあと、夢の5チャンネル作りを願いながら引退した。が、バブル崩壊とはいえ、夢破れて、甦るとは、それこそ夢にも思わなかったろう。

初代カペラ誕生の70年、東京牛込柳町交差点が「日本一汚い交差点」とマスコミに書き立てられ、排気ガス鉛公害が問題となる。で、公害の元凶と指摘された有鉛ハイオクタンガソリンのCMが、通産省規制で、消えたことを思い出す。

REの大出力と軽量コンパクトで軽快な初代サバンナ。レースでも活躍した。工業技術院村山試験場で旋回試験中の筆者