【車屋四六】命みじかし斬新カイザー

コラム・特集 車屋四六

カイザーといっても、もう知っている人は少ない。カイザーフレイザー社の作品である。ヘンリーJカイザーと、ジョセフWフレイザーが創業者だが、非常に短命な会社だった。

創業は、WWⅡが終わった翌年の46年。カイザー(82~67)は、戦争中、軍の輸送船の大量生産で財を成した。リバティー型戦時標準船の船体を分割生産、一挙に組み立てる斬新アイディアだった。

斬新なブロック工法船を、別名カイザー船とも呼んだが、最盛期には1万トン級貨物船を毎日2隻進水というのだから大したもの。戦時中2600隻を進水、戦後も活躍を続けた。

貨物船も戦争中は兵器だから終戦で需要がなくなる。そこでひらめいたのが乗用車造り。自動車が生活必需品なのに、戦中4年間ほどの空白で、新車需要が旺盛になるのは目に見えていた。

戦前からの自動車老舗は、元が自動車工場だったから、兵器→自動車で生産再開。新車にこだわらなければ、倉庫から戦前のプレス型を引っ張り出せば、事が済む。

が、造船屋ではお手上げ。まさかドックではどうしようもなく、白羽の矢を立てたのが、フォードの爆撃機工場。もっとも、先に目をつけたのは、同じく新参者のタッカーだったが、デトロイトの老舗と政府、議員連合の悪巧みで倒産。

自動車では新参のカイザーも、造船屋として政府関係には太いコネがあり、工場入手に成功するも、困ったことに自動車生産には全くの素人。で、戦前グラハムページ社長のフレイザーと手を組んだのである。

で、46年創業。翌47年には新型車発売に漕ぎ着ける。老舗の戦前型に対して、裸から出発のカイザーは戦後開発だけにスタイルが斬新。まず、戦前常識だった泥よけ(フェンダー)が無い。世界から注目を浴びたフォードの戦後型フラッシュサイドボディー、実はカイザーが先取りしていたのである。

発売した乗用車は二系列で“安いカイザー”“高級なフレイザー”がキャッチフレーズだった。斬新な姿もあってか、初代は累計25万7093台を売って、新参者としては先ず先ずの成績だった。

48年型フレイザー:戦後創業らしくフォードより早いフラッシュサイドの姿が斬新だった

やがて二代目登場。初代には少々の野暮ったさがあったが、二代目は見違えるようにスマートになった。当時のライバルたちと見比べても魅力あるスタイリングである。

が、登場した51年は好調だったが、52年に入り老舗の戦後開発型が市場に出回るようになるにつれ、売り上げが低下していった。写真トップのの54年型マンハッタンセダンは、シリーズ中の最人気者だったのにもかかわらず、売れたのはたった3860台だった。

ちなみに、54年の総販売台数は、8570台にすぎない。これでは経営は成り立たない。53年既にウイリス社を吸収して、再起を図った54年だったのにである。

で、55年をもって、カイザーの名は市場から消えていった。

翌56年は日本では昭和31年の頃、戦前脱退の国連に復帰、ようやく国際的に認められた頃。公団住宅の第一回公募で“団地族”と庶民あこがれの流行語さえ生まれた。

NHK―TVで外国映画の放映が始まり、カラー放送の実験放送も東京で始まった。経済白書で“戦後は終わった”の宣言。庶民は電化ブーム、国民最高の娯楽が映画と云うことで映画館新設ラッシュ。大東京500年祭。売春防止法成立で落胆した人たちも。というような年だった。

タッカー(豊田博物館蔵):出る釘は打たれるの例え通りデトロイトの老舗と議員役人の連合軍に押しつぶされた