【車屋四六】ハンバー・ホーク

コラム・特集 車屋四六

WWⅡ後の日本で、世界の先進技術に追いつけと外国メーカーとの技術提携が流行った。英国ルーツグループと提携したいすゞが、ヒルマンのノックダウンからの出発は、何度も書いてきた。

世界有数の乗用車生産輸出国だった英国は、WWⅡ後の一時的隆盛のあと斜陽に転じ、ルーツグループも64年からクライスラーの資本参加、73年の完全買収で支配下に入った。

が、クライスラーの業績悪化で、フランスのプジョータルボ社が次の主で、98年に伝統の社名が市場から消える。

そもそもルーツグループは、33年にイギリスの老舗5社合併で誕生、さらに3社吸収で完成した。日本で乗用車の知名度があったのは、ヒルマン、サンビーム、シンガー、そしてハンバーだった。

戦争に負けた日本に進駐軍が上陸。その中、英軍の高級将校用がハンバーで、私がハンバーを見た最初だった。進駐軍というと米軍を連想するが、それは占領業務が一段落した昭和20年代後半頃からのこと。

上陸したばかりは連合軍の名称通り各国軍隊が居た。私の住む麻布界隈では、アメリカ、イギリス、ニュージーランド、中華民国、そしてオランダも見たような記憶がある。

圧倒的多数のアメリカ兵に次いで多かったのがイギリス兵で、米軍の親分マッカーサー元帥はキャデラック、そして英軍の親分がオースチンA125シアーラインと呼ぶドでかいリムジンだった。

オースチンA125シアーライン:特大のヘッドランプが特徴的だった。三船敏郎が運転しているのを見た

以前紹介したことがある、マカオ総督のオースチンA135プリンセスは、このシアーラインの上級グレードだが、装備仕上げが違うだけで、サイズは同じようなもの。

ハンバーにも、かなり大型のハンバースナイプ、そして少し小さなハンバーホークと2種類があり、高級将校用はスナイプ。

が、どれもが軍用車らしく色気のないカーキ色の艶消塗装。少々色合いは違うが、日本軍の国防色だ。しかし占領が一段落した1950年代になると、軍人やシビリアン(民間人)が小型のホークを乗り始めた。

その頃には、港区芝田村町のメトロポリタンエージェンシーと、赤坂溜池の日英自動車で輸入を始めたから、進駐軍キャンプで、艶やかなハンバーを見かけるようになる。

もちろん裕福な日本人も乗るようになる。ホークは、ポピュラーなオースチンA40より少し大きいサイズで、堂々姿の中型サルーンだった。もちろんオースチンやヒルマンより高額である。

ホークの戦後モデルは50年登場だが、エンジンは戦前のヒルマン・フォーティーン搭載の1900ccサイドバルブと旧態依然。が、53年には新開発の2267ccOHVに換装され、性能も向上する。

が、58馬力/3400回転はロングストローク型丸出し。おっとりした性格でフレキシブルだから、ずぼらな運転で楽ちんだった。写真のホークは、たぶん新エンジン搭載車と思われる。

後方に写る、双発プロペラの大型旅客機が懐かしい。

中型では少し上等なハンバーホーク:イギリスでは中流家庭のファミリーセダンいやサルーン

53年頃は、アメリカやヨーロッパのほとんどの乗用車が、戦後型に一新された頃。敗戦国ドイツも輸出再開。フォルクスワーゲンやベンツ、オペル、フォードタウヌスなどが日本にもお目見えの頃。

一方、日本の53年は、ノックダウンの日野ルノー、日産オースチンA40、いすゞヒルマン・ミンクス登場。純国産はトヨペットスーパー、オータPF、NJニッケイタロー、オートサンダル。

NHKと日本テレビが本放送を始めるが、庶民は駅前繁華街の街頭テレビだった。ラジオから聞こえてくるのは♪君の名は♪雪の降る町♪毒消しゃいらんかね♪町のサンドイッチマン、など。

胸と背中に宣伝看板を下げたサンドイッチマンという商売が流行ったのがこの頃。陸軍大将の息子が看板下げて銀座通りを歩いたのが話題となった。