【車屋四六】名門ベンツ敗戦の焦土から立ち上がる

コラム・特集 車屋四六

ロールスロイスやベントレイ、マイバッハなど特別な高級車を除き、日本でステイタスなのはベンツと云って良いだろう。正しくはメルセデス・ベンツだが、WWⅡ後の昭和20年~30年代半ばまで、マニアを除いて日本では知名度が無かった。

その頃の日本では、ヤミ成金に始まり大企業経営者、政府高官の乗用車といえば、クロームメッキでピカピカのアメリカ車だった。もっとも裕福な人々の自家用車は小型の英国車が主流で、フランス車、イタリア車、ドイツ車はマイナーな存在だった。

唯一例外は、オペルレコルトとフォードタウヌス。プレミアムが付くほどの2台のドイツ車は例外で、英車より人気が上。ベンツもフォルクスワーゲンもヤナセが扱うまでは売れない車だった。

ヒトラー総統が好んだメルセデスベンツの、敗戦からの復興は意外と早い。もちろん戦前の姿のままの170V型だが、敗戦翌年の46年にロールオフ、以外な早さである。(写真トップ:ベンツ170V。46年戦後の生産開始。前開きフロントドア、ワイパーは支持は上部、ラジェーター下部の丸蓋はクランク棒差し込み口カバー。跳ね上げ型方向指示器。)

ダイムラーベンツと云えば、世界中で知らぬ人が居ないだろう、航空エンジンメーカーの老舗。開戦の頃、世界最強最速と恐れられたメーサーシュミット109戦闘機もダイムラーのV12気筒だった。

もちろん大戦中のダイムラーベンツは、軍用を除き民需用乗用車は造らず、39年から45年までは兵器生産の重要拠点だから、連合軍の爆撃は猛烈で、終戦時の工場は瓦礫の山と化していた。

そんな所から、わずか一年で170Vを誕生させるのだから、感心するのも当然である。170V、51年までの初期型はボンネット側面に縦目の通気用スリットが並んでいたが、52、53年型にはそれがなく、54年型から戦後開発車に交代する(念のため)。

銀座カネボウ前の戦後型170V。ドアヒンジが外に突出。ボンネットルーバーは初期型の特徴で後期型は横二本のスリットに

ヤナセが扱う前のベンツの正規代理店は、麻布今井町の黒崎内燃機で、ドイツの軽自動車チャンピオンの輸入元とでもあり、現在のアークヒルズ前から六本木方面に向かう最初の信号の右角に在った。

黒崎内燃機は、ベンツをヤナセが使うようになると、ボルボの輸入元が入り、数年前に定年退職したボルボの名広報マン四本(よつもと)さんも、当初は黒崎内燃機の二階で働いていた。

最終型170Vの心臓、直四1767ccエンジンは、圧縮比6.5で45馬力。別に直四のディーゼル仕様もあり、こちらは40馬力。最高速度はそれぞれ105km/hと100km/hでそれほどの差はなかったが、加速では大きな差があり、ゼロ100㎞加速が、ガソリンなら36秒、ディーゼルは50秒だった。

日本グライダークラブの先輩、飛行機パイロットの仲間でもあった原典明がディーゼル170Dのオーナーで、借りて乗ったがイライラする加速には当時でも忍耐が必要だった。また、ディーゼル特有の振動処理のために柔らかいマウントで支持したエンジンが、アイドルでユラユラと揺れる姿は異常であり、見ているのが楽しくもあった。

かなり前から映画やTVに黒塗りの170Vをよく見かけるが、貸し出し用機材業者が持っているのだろう。戦争前のシーンとはいえ、時の大臣や大将、財閥の当主が乗るには少々小さすぎるので、首をかしげて見ている。

第二次世界大戦は、1945年(昭20)5月にドイツ降伏、8月日本降伏。ドイツでは翌年にベンツその他が生産再開しているが、戦前に乗用車産業がほぼ無いと云っていい状態の日本では、連合軍の生産禁止令があったとはいえ47年とおそかった。

もっとも戦前型で復活できたのは日産のダットサンのみで、トヨタは初の小型車トヨペットSA、そして新参立川飛行機の流れを汲む、たま電気自動車の三台だった。

もっとも産業復興に必要なトラックの方は、戦前からのメーカーが45年には生産を再開している。もっとも敗戦後は通称“りんタク”いわゆる三輪自転車タクシーが活躍していたから、乗用車など必要なかったのかもしれない。

170Vカブリオレ(多分52年型):後期型らしくドアヒンジ内蔵、ワイパー支持は下部に、クランク棒差し込み口は健在。方向指示下はボディーに内蔵

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