【車屋四六】クルマは高嶺の花だった

車屋四六

高嶺=たかね、高根と書く人も居るが、昭和十年代、私が憶えた頃は高嶺だった。文字の読み方は時代と共に変わり、意味さえも変わるが、私は昔にこだわっている。

戦後初の自動車ショーは日比谷公園で昭和29年=54年に開催の全日本自動車ショウ。当時はショーではなく、ショウだった。昔習った”かな”遣いは、戦後の教育改革で新カナ遣いになったが、物書き稼業でも未だに間違える。まさか、蝶々(チョウチョウ)を”てふてふ”とまでは間違わないが。

自動車ショウは日比谷公園で4回開催の後、後楽園競輪場に移り、第6回から、完成したばかりの晴海会場で毎年開催されるようになる。第1回が日比谷に決まった理由は単純明快。交通の便が良いからというのである。現在では思いも付かぬ理由だ。

後楽園会場:まだ乗用車は少なく見えるのは3輪車ばかり。奥に競輪用バンク路面と観客席

現在ショーに行く人の大半はマイカー。が、当時は、バスや電車が前提だったのだ。もし車だとしても自転車。で、第1回には”自転車預かり所”という施設がちゃんとあった

もちろん第2回にも預かり所はあったが、たった1年で、自転車からオートバイやスクーターに替わったのだから、戦後の復興のスピードが伺えようというものである。

その頃の平均的家庭の憧れは電化製品。電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機。それを、憧れの三種の神器と呼んだもので、持てればステイタス気分にひたれた。

もちろん自家用車などというものは高嶺の花だから、ショウ会場の主力は2輪車。そしてショウの広場は、トラックとバス、3輪貨物車が並んでいた。第1回での乗用車はたった17台。

ちなみに、第1回ショウ開催の54年、国産新車はオオタPH-1だけ。それにトヨペットスーパー、プリンスセダン、ニッケイタロー、オートサンダル。日本純血種ではないがライセンス生産の、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンA40という顔ぶれ。

第2回ショーには、プリンスセダンを自ら運転した皇太子(現天皇陛下)が来場するという、ハプニングに我々は驚いた。この年に誕生した国産新型車は、トヨペットクラウン、トヨペットマスター、ダットサン110、日産オースチンA50、フライングフェザー、スズライトSSセダン、最後のオオタPK-1。

第1回、第2回の頃は、ようやく自動車らしい国産乗用車が登場を始める節目だったような気がする。そして全国に100社以上もあった2輪メーカーの淘汰が進行する時代でもあった。今では、たった4社になってしまったが。

そんな54年には、マリリンモンロー、ジョーディマジオ夫妻の来日で大騒ぎ。若者達はマンボで踊り狂い、ラジオからは終日”お富さん”が流れ、自動車クラブが流行ったのは、持てない自動車への憧れの吐け口だったのだろう。

55年は、日本近代化開幕の年。家庭電化が始まり、通産省の国民車構想発表。世界初ソニートランジスタラジオ発売、プリント配線や電子音楽が登場。そこから生まれるメロディーは、早くもマンボからチャチャに替わっていた。

日本道路公団発足の56年、ショウ登場の新型車はいすゞヒルマン・ミンクスのみだが、2輪では陸王、めぐろ、キャブトンなど、ナナハンや1200大型バイクがまだ健在だった。

この年、自動車免許制度が変わった。私が取得した頃の小型免許は1500㏄まで、それ以上は大型。60年に小型は2000㏄に改訂。いずれにしても鮫洲試験場のシボレーで得た私の大型免許が、法改正で自動的に大型2種に格上げされた。

第4回自動車ショウの57年には、ライセンス生産の混血自動車の100%国産化終了。純血種ではスカイラインやコロナ、フジキャビンなどが誕生する。

56年、政府は国産車愛用を打ち出し、官公庁から輸入外国車の姿が消えた。景気上昇で最高額紙幣を飾る聖徳太子は五千円札に。百円硬貨誕生。憧れ三種の神器では電気掃除機が白黒テレビに変わる。世界初人工衛星ソ連のスプートニクに世界が驚く。

会場が後楽園に移る第5回ショウの頃、聖徳太子は一万円札に引っ越し。若者はロカビリーとフラフープに夢中。ショウ会場登場の新型車はスバル360とミカサツーリング。35円のインスタントラーメンが登場した頃である。

晴海会場(筆者空撮)に移って、日本のショーも一流になった感じがした

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