【車屋四六】ブルーバード大失敗

コラム・特集 車屋四六

職業柄、新車が登場すると、広報車を借りて、私なりのデータ収集と写真を撮ること約50年間。若い頃は年間120台ということもあったが、70歳を超えて気力が衰えた近頃では年間60台前後が精いっぱいだ。

で、毎週、新車が駐まる我が家の駐車場、近所に引っ越してきたばかりの人は、当家を大変な金持ちと勘違いするらしい。時には自動車セールスマンが「まだ登録できないはず、どこで買ったのか?」と疑惑の顔で飛び込んでくることもある。

通常、新型車は報道発表と同時に発売だが、実際には報道関係試乗会、そしてディーラー主催顧客試乗会と続く。その間が長いと、一般顧客車登録前に、広報車がわが家に来てしまうことから、セールスマンの不思議? ということになる。

大々的な報道発表が何時からかは記憶にないが、昭和30年代にはほとんどなく、新車登場後しばらくすると「そろそろ試乗記を書いてくれませんか」と広報からの電話で取材する。

もっとも、当時は自動車専門誌の数も少なく、その紙面を賑わしていたのは輸入車ばかりで、ちゃちな国産車の出番はなかった。国産車の出番が回ってくるようになるのは、いすゞ、日野、日産のライセンス生産が始まり、クラウン、コロナ、ブルーバード、セドリック、スカイライン、ベレットなどが出始めてからである。

現在、日本市場は断トツでトヨタの天下だが、当時は日産で、トヨタは追いつけ追い越せの執念を燃やしていた。それが逆転するきっかけは、63年登場の2代目ブルーバードの頃だったような気がする。

日産は、太平洋戦争以前から小型車の代名詞でもあったダットサンで戦後の再建に出発。純戦後開発のダットサン110で、小型車市場のリーダー役を務めていた。

そして初代ブルーバード310の大ヒットで、業界ナンバー1の座は決定的。当時、世間の日産評価は”技術の日産”。こいつはユーザーの信頼感から、自然発生的に生まれた言葉だったようだ。

調子にのる日産は、王座を決定的するための大きな賭けに出た。それは自信のある技術と、世界最高デザインとのドッキング。当時、欧米で飛ぶ鳥落とす勢いの大御所ピニン・ファリナに、日産の2本柱、ブルーバードとセドリックを依頼したのだ。

が、カロッツェリアのスタイリングという賭けは、残念ながら裏目に出る。欧米なら機能的と喝采を浴びただろう姿も、こと自動車では発展途上の日本ユーザーの好みからは外れていたのだ。郡山

一番嫌われた部分はトランクリッド周りの尻下がり姿。その期に乗じたトヨタは、2代目クラウンのまずまずの成功、負け犬コロナの反省から生まれた3代目コロナが、見事ブルーバードを破り首位の座に。それは失敗を繰り返さないトヨタ快進撃の始まりだった。

もっとも、ブルーバード、セドリックの失敗は日産自身にも原因があった。ファリナのモデルは、その後フィアットなどに採用された空母のようなフラットなデッキにキャビンが乗る形だったが、当時、日本人憧れの姿は一昔前の米国車。その丸い姿にあこがれて、せっかくのファリナデザインに手を加えて、尻を下げてしまった。が、下げなくとも日本人が受け入れたかどうか判らないが。

多分アルペンラリー出場の410:夜明けの道を走るNDC-tokyoのラリー車

誕生したブルーバード410は、営業面では失敗作となったが、性能は素晴らしく、レースやラリーでは大活躍した。サファリラリー参加も、410で始められ、510で総合優勝を果たすのである。

富士スピードウェイ、船橋サーキットなどでの活躍ぶりは今でも目に浮かぶが、ファクトリーチームばかりでなく、アマチュアの410愛用者もたくさんいて活躍した。

船橋飛行場滑走路と並行の長い直線路を終わり、ヘアピンに差し掛かる410型2台。レースでは高性能ぶりを発揮した

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