【車屋四六】日比谷公園のモーターショー

コラム・特集 車屋四六

東京モーターショーと改名されたのは昭和39年=1964年から。それまでは全日本自動車ショーだった。その第1回目が開催されたのは日比谷公園。そして第2回、第3回の後、第4回目で後楽園競輪場に移った。

が、後楽園開催は1回だけで、その後は皆様ご存じ晴海会場、そして幕張に移って、今日に及んでいる。第2回(日比谷)の写真を紹介しよう。(写真トップ:バスの隣に日本を代表するクラウンの展示:見事にちゃちな展示台。当時の高級車はアメ車を真似た白タイヤ。第2回は日比谷公園。)

自動車ショーといっても、乗用車の数は数えるほど。トラックやバス、オート三輪、オートバイ全盛の時代だった。乗用車では、登場したばかりのクラウンが注目を浴び、プリンスも人気者。

プリンスは52年登場の高性能セダンで、皇太子殿下御愛用(現天皇)。この第2回のショー開会式に、御自身の運転で来場というハプニングもあった。

第2回は、5月7日から18日までの開催で、78万人という当時としては異例の観客動員に成功した。参加企業235社というと盛大だが、ほとんどがバストラック会社、特に数の大半を占めたのが2輪車メーカーだった。

が、第1回の参加社数が254社と多いのは、発展が始まったばかりの自動車工業界としてはおかしな現象だが、戦後一世風靡のオートバイ業界の淘汰が始まったことの証だった。

ショー会場に駐車場は付き物だが、第1回はそこに駐まっていたのは自転車ばかり。が、第2回になるとかなりの数のオートバイになり、この時代の急成長ぶりが判ろうというものだ。

いずれにしても、会場に併設の駐車場は駐輪場でしかなかった。ショーとは、乗用車を持てない人たちが、夢を見に来る所だったのである。もちろん乗用車で来場する人もいたが、車は日比谷公園付近に路上駐車だったのである。

どんな結びつきかは知らないが、日比谷から晴海に至るまで、会場にはニュートウキョウが出店していた。当時はテント張りで、食事券150円、ケーキ50円、サンドイッチ100円、オードブル100円、アイスクリーム50円、リボンシトロン60円、リボンジュース60円、生ビール500㏄125円が全商品とメニューは貧しい。

貧しい自動車業界としては、55年は乗用車の豊作年。実は、前年の新作はオオタのみ。また56年もヒルマンミンクスのみ。が、55年は、クラウンを筆頭に、ダットサン110、オースチンA40、トヨペットマスター、スズライトSS、フライングフェザーなどが誕生して、フットライトを浴びたのである。

振り返れば、当時の自動車ショーは、身近な生活必需品としての欧米の自動車ショーとは異なり、庶民が夢を見る所であり、また主催者側は、じきにマイカー時代も夢ではない、のデモンストレーションだったのである。

それの裏付けとしては、4人乗り・時速100キロ・売価30万円を達成したメーカーがあれば、国が援助するという、通産省国民車構想なるものが発表された。

また、増えた自動車の事故増加で、貧しい被害者の泣き寝入りを防ぐために、自動車損害賠償責任保険制度が実施されたのも55年。もっとも、最高限度額が30万円。当時の物価を反映しているとはいえ、やはり当時庶民の人命は安いものだった。

第3回は後楽園競輪場:展示モデルはトラック3輪車バスばかり。自転車用傾斜路面や観客席が後方に。左奥の森は元水戸藩の後楽園