【車屋四六】ボルボはレースが好きだった

コラム・特集 車屋四六

今では日本市場に根を下ろしたボルボも、60年代はサーブと共にマニアの車、通の車だった。共にスウェーデン北欧生まれだが、後年ボルボはフォード、サーブはGMに、アメリカ資本の傘下に入った。

現在ボルボはフォードから、中国の浙江吉利控股集団に18億ドルで売却されたが、ボルボの良きイメージは変わらず健在である。ボルボのポリシーは機能優先、安全第一。安全イメージは、世界最高と評された伝統スウェーデン鋼の信頼性の影響も見逃せない。

浪花節、森の石松・金比羅道中記で「何か大切な物を忘れちゃいませんか」というくだりがある。ボルボにもそれを云いたい。ボルボは堅ブツの乗用車というイメージだが、意外なことにスポーティーも売り物なのである。

こともあろうにステーションワゴンばかり集めた、ワンメイクレースを開催したり、また一昔前、レースで活躍の無骨な姿から”空飛ぶ煉瓦”などという愛称さえ生まれていたのである。

写真トップは、1944年生まれのボルボP444だが、それが進化したP544などは”ザ・ファミリースポーツカー”とアメリカ向けカタログに堂々と記載されていた。

論より証拠、もう一枚の写真(下)は、58年にカリフォルニアで撮影。SCCA(スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ)主催のレースの一風景。ヒーレイ100を追いかけるジャガーXK、それを追うボルボの勇姿だ。

USAカリフォルニアの郊外の飛行場でSCCA主催のレース風景:ボルボP444が、ジャガーXKと更に前方ポルシェ・スパイダーを追いかけている

60年代まで、アメリカ人の一部はボルボをスポーツカーと認識していたようだ。直列四気筒1800㏄80馬力から生まれる、最高速度150キロ、ゼロ400メートル17秒で走りきる実力は、下手なスポーツカークソ食らえという性能だったのである。

余談になるが、このボルボのオールドファッション姿、何処かで見た記憶があるという人も居るはず。それも道理、ボルボはベストセラー48年型以前のフォードを手本に開発されたのである。

戦前のボルボは、国内需要のみ考えて開発されていたのだが、戦後開発のP444から輸出優先に転換し、特に大市場アメリカを目標にしたから、ベストセラーのフォードを手本にしたのだ。

50年代、良く乗る機会があったが、軽い吹け上がりの良いエンジンパワーを4速ギアで上手に操ると、メリハリあるスポーティードライブを楽しむことが出来た。ことも有ろうにタクシーに使われたこともあるが、頑丈と云うことで、評判が良かった。

写真のレースが開催された58年の日本は昭和33年、スバル360やミカサツーリングが誕生した年で、レースが出来るような国産車は皆無だった。

でも戦後の経済復興は順調に伸び、収入も増えたが物価も上昇で1万円札が登場。インスタントラーメン登場、神戸に生まれたダイエー1号店がスーパーの始まり。電気釜がブームで、庶民は団地に住んで電化製品を揃えるのが憧れの頃だった。

WWⅡ直前から1948年まで生産されたフォード:米国輸出を考慮した乗用車開発で参考にしたからP444の姿が似る原因となる