【車屋四六】トヨタ流スタイリングの完成

コラム・特集 車屋四六

タクシー業界で活躍したトヨペットスーパーの時代が終わり、昭和30年=1955年に初代クラウンが誕生した。OHV1453㏄48馬力は欧米のライバルと比べれば非力ではあったが、モダンな姿で、外車からの転向さえ見られるようになった。

その後の法改正で、小型車規格が1.5リッターから2リッターになり、性能向上と相まって観音開きドアのクラウンは法人用車として地位を確立した。そして8年後の62年、2代目クラウンがベールを脱いだ。

初代の姿には、憧れの外車への匂い紛々(ふんぷん)だったが、2代目からはそれが消えで個性が満ちていた。模倣を脱して、個性あふれるトヨタ流デザインが確立されたのである。

1897㏄3R型90馬力搭載で83万円。物価上昇の8年を経て初代の95万円より安いのは、量産効果のあらわれで、所得の増加と合わせれば買いやすくなったとはいえ、未だ庶民には高嶺の花だった。フロントガラスにバックミラーの糊付けは日本初。

63年第1回日本グランプリ。64年東京オリンピック、茨城県谷田部に高速試験場完成。65年東名高速全通。66年サニーとカローラ登場という時代背景の中、クラウンは法人用車としての地位を固めていった。

時あたかも日本市場では、モータースポーツ熱が上昇中。鈴鹿の日本GPでは瓢箪から駒。NDC=日本ダットサンクラブのフェアレディ優勝で、日産は宣伝効果満点の鯛を釣り上げたのである。

が、裏話をすれば、サファリラリーに的を絞った日産は日本GP参加には消極的だったが、NDC田原源一郎の参加の意思が固く、仕方なくチューニングに手を貸したのである。

一方、ライバルのトヨタは、素人レースには参加せずの自工会の紳士協定をよそに、水面下で着々と周到な準備をしてレースに臨んだ。結果は、クラウン、コロナ、パブリカ優勝で3種目を制覇。

3台並んで走り続けるパブリカ:準備万端のトヨタは、パブリカ、コロナ、クラウンが各クラスで優勝

トヨタは、派手なスポーツカー優勝を横目に見ながら、直接販売に結びつくツーリングカー種目総なめで目的を果たす。トヨタは”花”より”実”を取ったということになる。

今回話題のクラウンで優勝したのは、早稲田大学自動車部出身の多賀弘明。GPのあと設立のTMSC=トヨタモータースポーツクラブの会長に就任。JAFスポーツ委員など、日本のモータースポーツ育成に尽くし、90年代前半に引退した。

“日本グランプリで3種目独占”。GPが終わると、トヨタの派手な宣伝が始まり、それなりの高い効果を発揮した。もちろん小型車市場ではBC戦争中で、コロナの応援に役立った。

一方高級車市場ではセドリックとの覇権争い。またグロリアやベレルの挑戦を受けながら、クラウンもGP効果を有効に利用した。その一端として、パーソナルユースへの挑戦が始まった。

それまでのクラウンは、法人向け高級車という概念しかなかったところへ、65年に登場したのがクラウンのS仕様。後年生まれる言葉”ハイオーナーカー”のはしりである。

クラウンSは高級車の常識を破り、前席がセパレート型でフロアシフト、回転計まで装備していた。それまでの高級車の概念は、フロントベンチシートでコラムシフトだったから、クラウンSのレイアウトはスポーツカーに他ならない。この企画は成功して、後にクラウン・ツードア・ハードトップ誕生へと繋がっていく。

近頃の札幌を知っている人なら、その変わりように感心するだろう。写真は札幌で、これからラリーへの出発直前。背景は札幌パークホテル、隣は木造立て2階の札幌高等電波学校の校舎である。

65年頃の初夏だと思うが、車はもちろんクラウンS。クラウンも初期のレースやラリーでは、たくさん活躍していた。

鈴鹿を疾走するライバル2台:セドリックの車高はノーマルだがクラウンは背が低い。チューニング済みのようだ