【車屋四六】日本人がデザインした英国スポーツカー

コラム・特集 車屋四六

かつてイギリスはスポーツカー天国だった。

世界のどの国よりも、スポーツカーのメーカーが存在した国。その出発点は、ほとんどが俗に云う”バックヤードビルダー”である。

アストンマーチン、ロータス、ベントレイ等、どれもがレースに勝つための、自分の車造りからの出発だった。そんな車は裏庭の物置小屋やガレージで組み立てられる例が多いので”バックヤード(裏庭)ビルダー”なる言葉が生まれたという。

となれば世界初飛行のキティーホーク号を造ったライト兄弟もバックヤードビルダーで良いだろう。彼等の中には発展して大きな会社に育てた人、小さなまま好きな車を造って楽しむ人、さまざま。

リライアント社は、そんな連中の中間的存在で、歴史的に見れば筋金入りの老舗。創立1935年、モーガンのような三輪型からのスタートだった。四輪の生産開始が56年で、斬新なFRPボディー製造が56年という、新しがり屋でもある。

リライアントシミターの後ろ姿

写真は、芸文社ピットイン誌依頼の取材で、86年撮影のリライアントシミター1600。前年イギリスに登場したばかりの新鋭で、この手の車としては、いきなり700台も売れたヒット作品。

この好評に目を付けたのがチェッカーモータース。200台の日本輸入枠の契約に成功。そのうちの1台だが、売り値は329万円。調べたら、スマートな姿の生みの親が日本人だった。

リライアント社は当初ベルトーネにスタリングを依頼したが、フィアットX1のデザイン中で忙しいと断られ、次に依頼したファリナにも、またジウジアーロのイタルデザインも断られるという、不運が続いた。

小さなメーカーだからと袖にされたのかも知れないが、最後に受けてくれたのがミケロッティー。実は、当時そこのチーフデザイナーが、同胞の内田盾男だったのだ。

チューブラーフレームにFRPボディー。全長3886x全幅1582㎜。当時まだFRPが珍しい時代で、ボディーは小さなパネルの集合で組み立てられている。射出成型機が小型で済み、部分改良が簡単、破損時の修理経費も安い、小さな企業が造る廉価版スポーツカーには最適とも云える工法であった。

エンジンは長い付き合いの英国フォードからの、直四OHCで1596㏄、圧縮比9.5、98hp/6000rpm、13.5kg-m/4000rpm。ハイギアードな5MTのコンビで、ゼロ100km/h10.3秒、最高速度180粁は、当時としては俊足だった。

小径ステアリングの据え切りは重いのでこたえたが、走り出せばクイックで、パワーゾーンは2000~5000rpmの間。ハイギアード設定らしく、2000回転以下では元気が無く、以上ならスポーツカーらしく楽しい車だった。

昔、スポーツカーでは世界最大市場のアメリカで、安全性が理由の禁止がトバッチリで、世界のスポーツカーから、ロードスターやコンバーティブルが消えた時代があった。

が、西部劇で有名な俳優レーガンの大統領就任。そして鶴の一声で、屋根無し車が息を吹き返した。そんな時代に生まれたのが、取材のリライアントシミターだった。

シミターを取材した87年頃の日本はバブルの絶頂期、後にレインボーブリッジと命名される東京港連絡橋の着工、円高が130円程までに進行して輸出産業大弱り、TV中継中に、社長が日本刀で斬り殺されるという豊田商事事件の年でもあった。

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