【車屋四六】フォードの爆撃機

コラム・特集 車屋四六

かつてカイザーフレイザー社について書いたことがある。造船王が戦争終結で、平和なこれからの世界を生き抜く道を探した時に、これからは自動車と決めたのだ。

早速、人材を集めて新車開発に目処を付けたが、次の課題は自動車製造工場。造船所の転用は無理だったので、目を付けたのがフォードの工場だった。

工場を手に入れて誕生したのは大衆車カイザー、少し高級なフレイザーだったが、武士の商法ではないが、造船屋の自動車造りは結果的に失敗だったことは前に書いたことがあるから省略する。

さて、どの自動車会社も終戦で兵器造りから本業に戻り、大増産が始まろうという時に、何故フォードは工場を手放す?その理由は、その工場が爆撃機工場だったからというのが理由である。

フォードの飛行機造は戦時体制だからではない。26年から33年まで、名機フォッカーに似た三発12人乗りフォード4-ATトライモーターを造った経験の持ち主だったのである。

ダイムラーがエンジン開発に成功すると、自動車に固執せず、船や飛行船、その他諸々あらゆる可能性に興味を示したように、フォードも種々チャレンジした中に飛行機もあったのだ。フォードの飛行機は、例の経済恐慌と重なり、撤退したのだが。

WWⅡ開戦で、42年2月10日、フォードは最後の乗用車を出荷後、全力上げて兵器生産に転向する。が、フォードに飛行機製造の実績があることを軍が思いだしたのか、爆撃機製造の命令が下った。

42年の日本軍は未だ元気。マニラ陥落、香港では有名なペニンシュラホテルが東亜ホテルになり、シンガポール陥落、ラバウル占領。後に問題になるバターン死の行進もこの年。が、米軍の日本初空襲もこの年。空母を飛び立ったノースアメリカンB25双発爆撃機16機が、日本各地を急襲した。

フォードの爆撃機はコンソリデイテッド開発の四発爆撃機だが、フォードは飛行機だけではなく、あらゆる兵器生産に従事した。例えば有名なジープは27万7896台。軍用トラック9万3217台。戦車2718台。水陸両用車1万3000台。装甲車1万2500台、と此処までは自動車メーカーらしい。

もちろん得意のエンジンでは戦車用2万6954台。航空機用5万7851基。爆撃機用スーパーチャージャー5万3000基。こいつは自作のコンソリデイテッドB24リベレイター爆撃機にも使われた。

写真は、フォード製兵器のデモ写真のようで、大型グライダーの前には、空冷星形発動機、後ろにジープ、戦車、トラック、トラクター、水陸両用車などが写っている。そして中央と更に後ろに三機のB24リベレイターが写っている

フォードが生産を一部担当したコンソリデイテッドB24リベレイター四発爆撃機

東京の渋谷と新橋の間に地下鉄が開通した39年にB24は誕生した。その性能は、空冷星形14気筒1200馬力x4、最大速度482粁、後続6000粁。爆弾2.3~5.8屯。12.7㎜機銃x10。B17より高性能高速で、主にドイツ本土爆撃に活躍。

東京初空襲のノースアメリカンB25ミッチェルと姿が似て間違えられるが、B25は双発双垂直尾翼で、なりも小型。ちなみにエンジンは1700馬力x2、最高速度438㎞。

B24爆撃機は、太平洋でも活躍したが、総生産量1万8181機は、爆撃機生産量では世界記録。内フォード製が8658機だった。ちなみに姿が似たB25は1万1000機である。

ロールオフ5000機目のB24にサインする、ヘンリー・フォードと息子のエゼル・フォード