【車屋四六】ファンジオとベンツ300SL

コラム・特集 車屋四六

近頃ではF1ドライバー、昔はグランプリドライバーと呼んだが、誰もが認める名手となればミハエル・シューマッハ。少し前ならアイルトン・セナ。我々オジンの若き頃はファン・マニュエル・ファンジオがその一人だった。

誰が上手いかは比較しようもないが、ファンジオはF1で51レースに出て24勝で勝率4.7割。対するセナは108レースで26勝、勝率2.4割である。ファンジオの頃はレースも少なく、50年にF1選手権が始まった時ファンジオ既に39才、もし参戦が若い頃だったとしたら、不倒の世界記録が幾つも生まれていただろう。

それでも、51、54、55、56、57年と五回のドライバーズチャンピオン、四連続チャンピオンはF1界の大きな金字塔である。

ファンジオは1911年のアルゼンチン生まれ。南米では戦前既に名を知られ、WWⅡが終わるとペロン大統領の肝いりのお陰で、ヨーロッパに渡ると、下積み無しにレーシング活動を始めた。

50年F1選手権開催が決まると、アルファロメオに招かれた。で、その年はアルファのエースドライバー、ジュゼッペ・ファリナがチャンピオン。そしてファンジオ二位。が、翌年、念願のチャンピオンをあっさりと手に入れた。

52年にアルファロメオはレースから撤退するが、チャンピオンに失業はなく、マセラティに移籍するが、重傷を負って二位という不満の結果。52年のチャンピオンは名手アルベルト・アスカリ。

54年はレース界では注目すべき年になる。戦前の強豪ダイムラーベンツがレース界にカンバック宣言。で、ファンジオはエースドライバーとして迎えられ、あっさりと年間チャンピオンになる。

ベンツのルマン24時間大惨事の55年はベンツで、56年はフェラーリで、57年は古巣マセラティで、連続チャンピオンという偉業を成し遂げる。が、何故か判らぬが、58年のシーズン途中で引退宣言、故郷のアルゼンチンで新たな人生を踏み出すのである。

そんな偉大なファンジオも年には勝てず、95年7月に84才で死去した。また、珍しい写真が手に入ったので記事を書いたと、95年10月7日発行のカー&レジャー誌に紹介している。

写真は、メルセデスベンツW196でファンジオがドライブした車か、その同型である。親亀の背中に子亀が、という写真だが、世界を股に掛けて転戦したW196や300SLを載せて、サーキットからサーキットへと走った有名なトラックである。(写真右:ファンジオの速さを証明するポスター(55年)。アルゼンチンGP:一位ファンジオ、二位スターリング・モス、四位カール・クリング。車はメルセデスベンツW196グランプリカー)

聞いたところでは、レーシングカーを載せた状態で風洞実験をして、空力面で磨きを掛けたという。で、高速走行もお手のもの。言うなればアウトバーンを疾走する広告塔でもあったのだ。

御承知のルマン大惨事。この時にファンジオはベンツ300SLRでトップを快走中、ファンジオとは良きライバルのスターリング・モスが二番手だった。

というようにファンジオは、F1ばかりでなく300SLやSLRなどでも大活躍して、数々の記録を樹立、ベンツに多くの栄冠をもたらせたのである。

日本での300SLは石原裕次郎の愛車として有名だが、彼は300SLをこよなく愛したようで、今でも小樽の裕次郎記念館展示の目玉になっているそうだ。

ファンジオについて、ダイムラーベンツの戦前からの名監督ノイ・バウアーは、ファンジオを回顧して「史上最高と呼べるドライバーは数多くいる・ファンジオもその一人・彼のドライビングは極めて安定しており単に速いだけではなくスタミナと才能を兼ね備えていた」と称えている。