【車屋四六】日本製GTが世界の檜舞台に登場

コラム・特集 車屋四六

昔、日本の小型車の定義は1500㏄以下だった。そんな日本市場に初めて登場した1500小型車がプリンス号セダン。ブランドに”号”を付けるのは何とも古めかしいが、当時の日本製自動車には”号”、船には”丸”というのが常識。

プリンス号誕生は昭和27年=1952年。搭載の新開発エンジンは直四OHV1484㏄、圧縮比6.5で45馬力。「時速100㎞を越える」といわれた最高速度が110km/hで当時の日本ではクラス最高。サイドバルブ全盛の頃、OHVは確か日本初だと記憶する。

乗用車メーカーは、日産、トヨタ、オータなどの先輩達が居たが、エンジン開発技術に関しては、中島飛行機の流れを汲むプリンス自動車がトップレベル。なにしろゼロ戦や疾風搭載の発動機開発では世界トップと云われた中川良一の存在が光っていた。

55年頃になると、外国技術でいすゞヒルマン、日野ルノー、日産オースチン、そして国産技術でトヨペットクラウンなどが登場して、追われる立場となる。

で、当然のようにニューモデルの投入。56年登場のスカイラインのデラックスとスタンダードは、フロントグリルに始まり、全く別物に仕立てられていた。ちなみにデラックスは、後年ゴージャスなグロリアに発展する。

搭載エンジンはプリンス号からの継承だが、圧縮比を7.5に上げ、ツーバレル型キャブレター採用で60馬力、125㎞の最高速度は、小型車市場では日本最速。

前輪はコイルスプリングでWウイッシュボーン、後輪は日本初ドディオンアクスルという凝りよう。極めつけがスタイリッシュな姿。グリスアップ不要の無給油シャシーなど斬新技術で群を抜いていた。

59年のある日、横浜港でスカイラインの裸シャシーが貨物船に積み込まれた。船が着いた所はイタリア。そして裸シャシーが運び込まれた先は、カロッツェリア・ミケロッティ。

で、新進気鋭のジョバンニ・ミケロッティのデザインが始まった。完成された図面は、架装屋の老舗アレマーノへ。クーペとコンバーチブル、イタリア生まれの美しいスカイラインスポーツが完成した。(写真トップ:ミケロッティ作スカイライン・スポーツ・クーペ:イタリアから来日の四人の板金職人から手ほどきを受けた日本人板金工の手作りボディーは、見事な出来映えだった)

スカイラインスポーツの初お目見えは60年の第十一回トリノ自動車ショー会場。その世界の檜舞台にたまたま居合わせた日本人ジャーナリストが「これスカイライン?嘘だろう」と云ったとか。

その信じがたい美しさにドギモを抜かれたジャーナリストも、ラジェーターグリル中央に、プリンスのエンブレム発見で、どうにか納得したそうだ。当時欧州では、釣り上がったライト型式をチャイニーズアイと呼んだそうだが、ミケロッティが東洋からの注文を意識したかは定かではない。

本物の革製シート、マニア憧れナルディー製ウッドのステアリングホイールなどは日本では貴重品だが、美しさはトリノショーでも飛びきりだったようで注目を浴びたそうだ。また前席リクライニングシートは日本初。

トリノでスカイライン初お目見えの昭和35年は、安保闘争の真っ最中。浅沼稲次郎社会党委員長が日比谷公会堂で演説中暴漢に刺殺される。石原裕次郎と北原三枝結婚。6月登場のハイライトは日本初のロングサイズ煙草だった。

待望のスカイラインスポーツの日本登場は、61年開催の東京モーターショー。そして62年市販開始。クーペ185万円、コンバーチブル195万円。値段の方も、美しさに比例したかのよう飛びきりだった。

スカイライン・スポーツ・コンバーチブル

トリノから板金工4人がプロトタイプと一緒に来て、日本人板金工に手叩きボディー技術を伝授したという。全て手作りだから、飛びきり値段も致し方なかろうが、二年間で売れたのが60台、当初予定の250台には遠く及ばなかった。

日本で作られるようになると、流用シャシーが二代目なったせいで、エンジンは1900㏄94馬力、最高速度の150㎞は、値段と共に日本最速であった。

スカイラインスポーツは、日本車の外国ショーデビューでは日本初の快挙、また、イタリアのカロッツェリアに発注も、日本初の出来事である。

コンバーチブル:前から後ろまで流れるような直線でレイアウトされた姿は、とても綺麗で速そうに見えた

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