【車屋四六】続続:世紀の傑作フォルクスワーゲン

コラム・特集 車屋四六

30年代初頭、ドイツの天下人になったヒトラー総統は、国威高揚の一手法として自動車を利用することにした。

先ず世界のレースを席巻してドイツの技術工業力をアピールすること。もう一つ、不況で不平不満が充満するドイツ労働者に希望を与え、士気を高揚すること。で「一生懸命働きなさい」そうすれば自動車オーナーも夢ではない、というもの。

で、国民車開発を請け負ったのがポルシェ事務所。それがフォルクスワーゲン。国民は毎週積み立てる。通帳が一杯になればフォルクスワーゲンが1台我が家に届くというのだ。

一方、レースの方では、ヒトラーお気に入りのメルセデスベンツだけでは物足りない。人気を盛り上げるには対抗馬が必要。が、資力のあるオペルはヒトラーが嫌いな米国GM資本で駄目。

ということで、ホルヒ、バンデラー、アウディ、DKW四社合併で誕生したのがアウトウニオン社。が、合併企業だからレーシングカーなど持ち合わせが無く、開発をポルシェに依頼する。(写真トップ:アウトウニオンレーサー。見慣れぬミドシップ型、当時は奇異と感じたようだ。運転がデリケートで難しく天才ローゼマイヤーだけが上手に運転したという)

ヒトラーの勝てる車造りには政府援助をということで、アウディも安心してレーシングカー開発に専念できた。やがて完成のグランプリカーはポルシェらしい独特な車だった。

アウディのGPカー完成は34年。それはフロントエンジン後輪駆動のそれまでの常識に反して、V16気筒4360㏄295馬力を車体中央に搭載したミドシップ型。当時は奇異なものだった。

いずれにしても、これで駒が揃い、ベンツとアウディの熾烈な戦いの幕が切って落とされた。実はベンツのDOHC直列八気筒も、ダイムラーベンツ時代にポルシェが開発したものがベースであった。

アウトウニオンのGPカーは、その後も進化を続けて、375馬力、520馬力と戦闘力を増していった。もちろんベンツとのシーソーゲームの結果だが、両車の名勝負が続々と生まれる。

が、如何にポルシェ博士開発といえども、初期のミドシップはジャジャ馬で、名手ベルント・ローゼマイヤーだけが乗りこなせたという歴史家がいるほど操縦が難しかったらしい。

両社のGPカーは、レースで火花を散らす戦いの他、速度記録でも熾烈な戦いを演じていた。この時速300㎞を越えるGPカーに、空気抵抗を減らす速度記録用ボディーを載せて、アウトバーンでの戦いが繰り返される。

アウトウニオンのレコードカー:ロゼマイヤーの世界記録時速407㎞樹立のタイプC型。カラチオーラに破られた記録に挑戦は次のモデルだが似たようなスタイリング

その結末は、ベンツの世界記録樹立で幕が閉じられる。が、それは戦いが終わったというだけで、アウトウニオン、いやローゼマイヤーの敗北ではなかった。(写真右:花束を受けるローゼマイヤー。写真では判然としないが、どうやらクローズドボディーの座席に立姿のようだから速度記録樹立直後かも知れない。婦人の服装はナチ時代の典型)

38年1月28日午前、それまでの世界記録ローゼマイヤーの406.3km/hを、カラッチオーラのベンツが破る。記録は432.69km/h。午後になると風が強くなりベンツは引き揚げたが、ローゼマイヤーは監督の忠告を無視して挑戦を敢行した。

当時記録は、追い風、向かい風を考慮しての往復の平均値。アウトウニオンは往路でベンツの記録を上回る429.491km/hを記録して、復路が期待された。

ちなみにベンツの往路は428.571km/h。復路436.873km/h。復路は更に風が強まった追い風区間。当然記録更新が予測されたが、順調に加速を続ける9キロ地点に不幸が待っていた。

時速430キロほどに達した時、突然ボディーが車体から剥がれた。残骸は300mも飛び、放り出されたローゼマイヤーは即死。この時点でベンツの世界記録が残ったのである。ちなみにベンツの記録は公道世界記録として今でも燦然と輝いている。

話は脱線したが、ポルシェのVWプロトタイプ完成は36年、試験走行、改良が繰り返されて、世界最大規模年産100万台の工場建設開始が38年。が、戦争突入でVWが量産されることはなかった。

が、ポルシェ開発のVWベースのジープ型戦闘車輌と水陸両用車が終戦まで生産された。やがて、工場は連合軍の猛爆で瓦礫の山と化し、敗戦で工場は英軍管理地区に入る。

が、英軍が瓦礫工場の将来性を無視したのが幸いで接収を免れ、生産再開。完成した車は、連合国軍向け戦時賠償となるが、もし市販したとしても一般市民に買うゆとりはなかったろう。

47年になると、世界最大市場アメリカに輸出開始。評判良くビートルなる愛称も生まれて、それを足がかりに世界制覇に向けて走り出し、ヒトラーの果たせぬ夢を果たすのである。

日本上陸は52年。日本市場に馴染みのないビートルを輸入車市場のナンバーワンに育てたのはヤナセの功績。その頃のヤナセは、キャデラックとビュイック、イギリスGMボクスホールそしてベドフォードのエージェントだった。

ポルシェはナチ協力者として戦犯。フランスの獄中に。が、息子がVWの部品流用で完成したのが、開発番号356番目のポルシェ356。獄中からのポルシェの指示が有ったというから、ポルシェ博士最後の作品がポルシェ356と云って良いだろう。