【車屋四六】続:ポルシェ博士の請負稼業事始め

コラム・特集 車屋四六

高級かつ高価なスポーツカーの傑作、メルセデスベンツSSKが誕生するのは28年だが、その前26年に6245㏄+スーパーチャージャーの180Kと呼ぶ大型ロードスターを発表している。(写真トップ:豪華大型傑作ロードスターのメルセデスSSK:泥よけと前照灯を取れば即レース場にという高性能車。生産台数僅か37台。それがバブル華やかな晴海クラシックカーオークション会場に登場)

26年は、有名な”アラビアのロレンス大佐”が事故死した高級オートバイ、ブラフシューペリア登場の年。史上最大最高級ブガッティロワイヤルも誕生。28年はオペルの火薬ロケット自動車が238km/hをマーク、日本が大正から昭和に変わる年でもある。

180Kは、翌年6789㏄180馬力の220Sに進化、更に翌年7069㏄225馬力の250SSへと成長していく。その220SSのホイールベースを短縮して生まれたのが世紀の傑作の誉れ高い250SSKだった。

250SSKロードスターは、シングルOHC六気筒+ルーツ型スーパーチャージャーで、車重2トンもある車を185km/hで快走させることができた。

SSKは卓越した性能で、各地レースを勝ちまくる。チームの大将格はルドルフ・カラッチオラ。戦後のグランプリでも大活躍する名ドラバー。「凄い走りなのにタイヤが減っていなかった」と60年代のベルリンで聞いたことがある。

自動車に興味を持ち始めた私は、彼の戦後の活躍に胸をときめかせたものだが、当時のエース、マヌエル・ファンジオやアルベルト・アスカリなどの先輩格ということになる。

さて、ポルシェの車開発は順風満帆に見えたのに、またもやポルシェはベンツに辞表を叩きつけた。原因は、オーストロダイムラーの時と同じ。念願の軽量小型車の提案を無視されたから。

彼の優秀は周知のこと、すぐに決まった次の就職先はオーストリアのシュタイア社。29年主任設計技師となり、年末には早くも六気筒2Lセダンを開発。続いて八気筒5.3Lセダンも完成する。

もうこれで大丈夫と思われた矢先にポルシェは運に見放される。踏んだり蹴ったりとはまさにこのこと。今度はシュタイア社が左前で、こともあろうにオーストロダイムラーに吸収されたのである。

当然のように辞職。これがポルシェ最後の宮仕えだった。30年シュタットガルトに戻りポルシェは設計事務所を開設した。

話しは脱線するが、30年は欧州映画の当たり年。日本でも今に語り継がれる名画”パリの屋根の下”モロッコ”西部戦線異状なし”嘆きの天使”など。また東京→神戸間600㎞を9時間で結ぶ夢の超特急”つばめ”登場も30年の出来事。

自動車、船舶、航空機、戦車など、何でもござれの請負稼業がこの時から始まった。彼は、全ての作品に開発番号を付けた。ポルシェ356は356番目。911は911番目という具合に。

となれば1番目が気になるところ。初仕事はバンデラー2L。が、開発番号は1でなく7というのが不思議だ。理由は単純、彼は縁起担ぎで1~6が欠番で、ラッキーセブンが初仕事。

彼の信用は絶大で注文は順調。年来の軽量小型車に興味を示したのがオートバイメーカーのツンダップ。が、開発番号12は残念ながら生産されることはなかった。

NO32は大衆車NSUのプロトタイプ:もう誰が見てもVWビートルの先祖だ。NSUには航空技術者が居て空冷星形エンジンの試作もしたらしいが没

二番手はNSUのNO,32。こいつも幻となったが、そのモノコック空力ボディーのプロトタイプを見ると、後の名作フォルクスワーゲンにそっくりだ。

こうして流れに流れた念願の軽量小型車の夢が実現するのが35年。開発番号60。これが世界に知られることになるフォルクスワーゲン(ビートル/日本ではカブト虫)である。

ナチの「働けば自動車が持てる」をスローガンに開発されたフォルクスワーゲンは、WWⅡ突入で積み立てはパー、スローガンはヒトラーの空手形に終わった。

そんなフォルクスワーゲンと、戦後の話は次回に。

NO32は大衆車NSUのプロトタイプ:もう誰が見てもVWビートルの先祖だ。NSUには航空技術者が居て空冷星形エンジンの試作もしたらしいが没

 

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