【車屋四六】フェルディナンド・ポルシェ博士

コラム・特集 車屋四六

フェルディナンド・ポルシェを知らない読者は居ないだろう。ヘンリー・フォードと共に自動車業界で世界最高の著名人物だから。

ちなみにポルシェという会社があるが、それは息子が作ったもので、フェルディナンドはメーカーに席を置いたこともあるが、独立してからは設計請負事務所の主である。(写真トップ:ポルシェ最初の作ローナーポルシェ電気自動車:80Vの電池だけで410㎏。車重1頓の車を時速50粁で走らせ航続距離50㎞。インホイールモータが写真で判る。)

が、彼ほど多彩なブランドで車を開発した人物は居ないだろう。最高のスポーツカーとレーシングカー、豪華な高級乗用車と思えば大衆車を。フォルクスワーゲンとポルシェ356あたりなら、今の若者でも知っているだろう。

原爆で被災した長崎の大浦天主堂が完成した1875年、ポルシェはボヘミアに生まれた。車造りに携わってからの彼は、何時も作業衣で手には油、このあたり本田宗一郎に似ている。ここで驚くべきは天才設計者の車造りが独学だったこと。

最初の作は、ウイーンのローナー社で開発のローナーポルシェ電気自動車。1900年のパリサロンで注目を浴びる。やがて実力が認められ、06年オーストロ・ダイムラーの主任設計技師に就任。

1900年は世紀の変わり目、多彩な出来事があった。3月ダイムラー死去。4月パリ万博開幕。ハワイ共和国がアメリカの準州に。7月ツェッペリン飛行船完成。第二回パリオリンピック開催。11月世界最強の日本海軍戦艦”三笠”英国で完成。

オーストリア帝国の大メーカーでの最初は”マヤ”。5700cc86馬力のスポーツカーで、10年、11年とプリンツハインリッヒ・トライアルに1~3位独占したが、優勝車の操縦はポルシェ自身。

オーストリア帝国の対セルビア宣戦布告でWWIが始まり、同盟国ドイツも参戦。日本も連合軍としてアジアのドイツ拠点を攻撃する。結果は18年ドイツ降伏でWWIは終戦を迎える。

オーストリア帝国の敗戦。で、ポルシェは貧乏になった国にふさわしい軽量小型車開発を進言するが受け入れられず。会社は相変わらずの大型車造りを続けた。

ある時、親しいコロウラート伯爵がポルシェの軽量小型車案に賛同して、4台の小型レーシングカーを発注した。四気筒1100㏄45馬力は、伯爵の名”サーシャ”と名付けられた。

サーシャは、22年のタルガフロリオを皮切りに、レースの優勝街道を走り付けたと云う。そのドライバーの中に後年ベンツのファクトリーチーム名監督で知られるノイバウアーが居た。

ポルシェ理想の小型車に賛同のコロウラート伯爵の注文で四台完成の1.5Lサーシャ。タルガフロリオ優勝を皮切りに好成績を残す

前途洋々のポルシェにも、ある日不幸が舞い込む。イタリアGPモンツァで、ホイールの欠陥でドライバーが死に、会社は事故原因をポルシェに着せた。責任回避に立腹したポルシェは、即日辞表提出。が、路頭に迷うことはなく、翌年、本家ダイムラーの主任設計技師として迎えられる。

初仕事は、未完成のレーシングカー。スーパーチャージャー二連結2000㏄OHC120馬力車を仕上げると、その車は翌年のタルガフロリオで優勝する。

その功績を評価したシュタットガルト工科大学は、ポルシェに名誉学位を授与する。ドクター・ポルシェの誕生だが、以来、ポルシェ博士が世界の通称となる。

彼が務めるダイムラーは、26年ベンツと合併して、ダイムラーのスーパーチャージャー付レーシングカーは、メルセデスベンツと呼ぶようになる。

そして天下の名品、スーパーチャージャー付スポーツカー”SSK”の登場となるのだが、それは次回に報告ということにする。