【車屋四六】F/Fと云ったところで前輪駆動ではない

コラム・特集 車屋四六

F/Fは日本製乗用車で昭和29年生まれ。昭和29年=1954年、翌55年の発売だが、日本の自動車技術がクラウンの登場で、まがりなりにも欧米に追いついた記念すべき年である。

クラウンは、外国技術に頼らず日本の独自技術で開発した記念すべき自動車だが、F/F4も陽の目は見なかったが斬新画期的という面で注目すべき小型乗用車だった。

55年=昭和30年は、日本が世界の先進国を目指して進撃を開始の頃で、既に本放送が始まったNHKテレビに続き、民放のラジオ東京テレビ開局。僅かだがTVが買える家庭も生まれていた。ブラウン管1インチが1万円の高額商品が月産5000台ペースで生産されるが、12型TVで大卒初任給の1年分が必要だった。

今では日本のロケット技術も世界最先端。惑星から砂を取って帰還するほどに高度だが、その元祖は糸川博士のペンシルロケット。手の指ほどのロケットだが、その初飛翔が昭和30年だった。

さて、F/Fと云っても、日本で常識的に前輪駆動車を指すFFではない(外国ではFWD)。F/Fとは、フライングフェザーの略。駆動方式はリアエンジン後輪駆動車だった。

企画は片山豊。設計は富谷龍一。ユニークな富士キャビンも手がけた人物だ。富谷の車に対する信条は「最小の消費で最大の仕事を」で、こいつはミニ開発のアレック・イシゴニスと同じ思想である。

冨谷龍一が後年開発の富士キャビン(日本自動車博物館蔵)。キャンペーンを務めた親友の妹が仕事終了で貰ってきたプロトタイプでかなり楽しんだのが想い出

富谷は、片山の前年に日産自動車に入社、ダットサンの開発に従事。戦後は日産の車体製作をする住之江製作所でダットサンスリフトなどを手がけた。住之江製作所は、日産の車体製作のため東京大森に、大阪の住之江織物の出資で生まれた会社である。

フライングフェザーは空冷V型二気筒OHV、ボア60㎜xストローク62㎜、斬新な回転馬力指向のオーバースクエア型で350㏄、圧縮比6.0で12.5hp/4500rpm、2.2kg-m/2500rpm、400㎏の軽量車体と相まって、時速60キロを確保できた。

特徴有るサスは日本初の三枚リーフで前後輪横置き。バイク用大径19吋タイヤは大径高圧の方が転がり抵抗が少なく燃費が良いとの判断。プロトタイプでは25吋のリヤカー用だった。

二人乗り異色のロードスターは、薄い板バネのウイッシュボーンで四輪独立懸架。クッションが良い大径ワイヤースポークホイールと相まって意外な乗り心地の良さに感心したのを覚えている。全長2667㎜、全幅1296㎜、全高1300㎜、ホイールベース1900㎜。3MT。最小回転半径3.8m。燃費25km/l。販売価格36万円。

輸入車業界のドンヤナセの御大、片山さんとも親しい梁瀬次郎が褒めた優れものだったが市場では受け入れられず、200台ほどで生産が打ち切られたのが惜しまれる。

第一次世界大戦敗戦後のドイツで生まれたハノマーグ:完成された量産軽自動車の元祖だと思う。ランゲンブルグ自動車博物館で

ちなみにフライングフェザーのネーミングも片山豊。羽ばたかずに悠然と滑空、少ないエネルギー消費で効率の良い飛行をするカモメをイメージしたのだそうだ。

ついでながら日産コンツェルンの総帥鮎川義介の秘蔵っ子として日産入社の片山さんは、いずれ日産社長になるべき人物だったが、戦後銀行出身経営者と肌が合わず冷遇され、トヨタも一時休業という米国に追いやられた。が、やがて自ら辞めるだろうの経営者の意に反して大成功、米国自動車殿堂入りする偉大な経営者となる。