【車屋四六】イタリアからビニヤーレがやって来た

コラム・特集 車屋四六

日本初の自動車タクリー号が生まれた明治40年にダイハツは生まれた。内燃機関国産化を目的の”発動機製造(株)”を名乗る。そして昭和26年=1951年にダイハツ工業と社名変更した。

ダイハツの名は、大阪の”大”と発動機の”発”の頭文字からのブランド名で、その歴史は古く、大東亜戦争=第二次世界大戦以前にさかのぼる。手元の資料では、昭和5年=30年登場の三輪貨物自動車ダイハツ号が、もっとも古い。

私がダイハツを知ったのは、WWⅡ中のこと。開戦から翌46年頃の日本軍は優勢で、輝かしい戦火が連日ラジオや新聞から報道された。当時、私は小学校、いや国民学校一年生だった。

軍艦に護衛された輸送船団が敵地に着くと、勇ましい敵前上陸。激しい敵弾飛来の中を、陸軍の兵隊さんを乗せて輸送船と海岸を往復する決死の小型舟、それが上陸用舟艇である。

支那事変(日中戦争)から帰った近所の退役軍人のオジサンから「あれはダイハツだよ」と聞いたのが私のダイハツの始まり。だから、覚えたのは自動車ではなく舟の名でだった。

同じく発動機製造を目的に生まれたBMWは、敗戦で飛行機が作れなくなったのが自動車稼業の始まり。が、ダイハツの自動車稼業は、三輪貨物自動車の輸入発動機の国産化が動機。日本製では、信用が無く買ってくれるメーカーがなかったのだ。

「ならば車ごと作ってしまえ」で生まれたのが、ダイハツ号三輪貨物自動車だったのである。車は評判が良く、結果、戦前既に市場では一流商品だった。

もちろん敗戦後の混乱期の物流で、ダイハツ三輪貨物=(戦後は)オート三輪が活躍したことは云うまでもない。ちなみに戦中軍主導で、ダイハツ、マツダ、日本内燃機の三社に統合集約されていた。

51年、戦後景気の良いオート三輪をベースに、ユニークな三輪乗用車”ダイハツ・ビー”を開発販売したが、評判が悪くないのに何故か一年ほどで姿を消した。タクシーに数回乗ったことがある。

好景気のオート三輪市場にかげりが見え始めたのは、小型四輪貨物自動車の台頭によるもの。その口火を切ったのがトヨエース、オート三輪の天敵登場であった。

もうダイハツも終わりか、どうする?と思ったら、救世主が現れた。57年登場のオート三輪のミニ版、ダイハツ・ミゼットの登場である。

ミゼットは、ダイハツの屋台骨の立て直しと云うよりは、業界全体の救世主だった。ミゼットの前既に軽三輪は存在したが、徹底的コストダウンで一躍人気者。で、三輪不況で意気消沈の三輪業界にカツを入れ、市場の牽引役となり業界全体を盛り上げた。

いずれにしても、過去の例を見れば、そんな会社が本格的四輪メーカーを目指すのは常識だが、大体が軽自動車から参入する。が、ダイハツは、いきなり登録車でアドバルーンを揚げた。

62年第8回全日本自動車ショーに「これ日本製?」と注目を浴びた美しい小型車がコンパーノ。その感心する美しさも当然だった。当時イタリア・カロッツェリア界の名門、ビニヤーレのスタジオから生まれた車だったのだ。

が、コンパ-ノは、待てど暮らせど市場には現れず、待ちくたびれた翌年の第9回のショーに登場したのが、コンパ-ノバン。こちらもビニヤーレと思ったらさにあらず。

ビニヤーレデザインの後部にダイハツ開発の荷室を追加のコンパーノバン。当時美しさに惚れ惚れした

ビニヤーレデザインの後半にダイハツデザインの荷室を継ぎ足したものと判った。が、仕上がりは見事なもの。「よくぞ此処まで」とダイハツのデザイナーに感心したものだった。

直四OHV、797㏄、41馬力/6.5kg-m。当時の常識通り後輪駆動=FRという構成。バンで終わりかなと思ったら、すぐにツードアセダンのベルリーナというネーミングで登場する。

販売価格は49万円。第11回の東京モーターショーに、コラムからフロアシフトになったオープンモデルを出品、コンパーノスパイダーと名乗った。(69万円)

当時、モーターマガジン誌の依頼記事のため、大阪空港近くの池田(現在ダイハツ町)に行ったが、工場の周りに畑が点在していたのを懐かしく想い出す。

スポーティーが売り物のコンパーノスパイダー。オープンエアの開放感とスポーティーな走りで人気があった